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9月, 2024の投稿を表示しています

デジタル技術と人形

前回の投稿で3Dプリンターについて 触れたのでデジタル造形技術について書いてみたいと思います。しかし私はデジタル造形技術で実製作したことはないので詳しい事は書くことができませんのであくまでも一般論として人形とデジタル造形技術について考察してみたいと思います。 私は工業高校で学んだ若者でした。当時多くの工場でプログラムを利用した機械工作は一般的なものでしたので初期のデジタル造形技術を学校で学ぶのは必須のことでした。当時は三面図という図面で品物の形状、全体各部分のサイズを正面、横、上の角度から書いた平面図を設計図として紙などで描きそれを基に手作業やプログラム(昔の特撮で出てきた紙テープで記録するあれです)で機械を使って品物を作っていました。しかし私が高校を卒業してほどなく紙で描いていた設計図が簡単にパソコンのディスプレイ上で描けるようになり、すぐにそのデータを利用して仮想空間に品物の立体データを生成できるようになりました。これまでは新しい造形物を作る時木などを使って試作品を作りそれを一度実寸してから設計図を仕上げていたのでこの様な技術の転換期に私の若者時代はありました。20代前半私は造形会社でその様な試作品を作る仕事を始めます、工場では身の回りにある工業製品の原型がまだ人の手を使って作られていました。タイヤの溝のパターンを職人さんが樹脂材料から手彫りで削り出しているのですから本当にびっくりしたのを覚えています。工業製品の原型制作とは当時この様な職人技が幅を利かせていた訳ですからデジタルモデリングは驚異的な技術だったのです。私が見た職人さんの中には図面すら描かずからくり玩具の原型を作る驚くべき職人がいましたが仮想空間のシミュレーション設計を使えば誰でもその職人同様のことを行うことも可能なのです。またその仮想空間上のシミュレーションモデルを現実の世界に出現させる出力装置であるロボット切削機や3Dプリンターの登場はデジタルモデリングの可能性を目に見える形で私たちに示しました。特に3Dプリンターは家庭でも使えるほど安価な製品として進化し家庭で手軽に工業製品レベルの品物を手にできるようになりました。では3Dプリンターとはどのような機械なのでしょうか?以下簡単に説明します。 3Dプリンターの原理は実は簡単なものです。「可塑性のある物体を硬化させながら積み重ねて造形する機械」これだけ...

生き人形について考える

 前回の投稿で生き人形師安本亀八について触れたので今回は生き人形について書いてみたいと思います。 生き人形というのはその名の通りリアルに作られた等身大の人形のことです。生きている様に見えることから「生き人形」と呼ばれます。「活き人形」と書くこともありますが意味は同じです。私が生き人形というものを初めて見たのは20代前半のことだったと思います、京都で人形店を経営していた青山さんという方が東京で販売会を行った時に会場に持ち込んだ物がそれでした。それは山本福松という人が作った等身大のおかっぱ頭の少女像でびっくりするようなリアルな人形でした。多分当時人形作家を目指していた若者たちは大なり小なり昔の名人たちの作った生き人形に「球体関節人形」以降の創作人形の可能性を見出していたのではないかと思います。ではそんな生き人形とはそもそもどの様な人形だったのでしょうか?以下説明したいと思います。 生き人形の歴史は江戸時代末期の1850年頃のことと言われています。この頃には様々な人形を使った見世物が流行しておりその中から熊本出身の松本喜三郎という人形師が行った生き人形興行が大当たりします。その流行に乗っかる形で沢山の生き人形師が生まれてきます、冒頭紹介した安本亀八や山本福松はその中の一人ということになります。沢山の生き人形師が生まれた背景には生き人形の構造に原因があります。生き人形は見えるところは紙張り子に胡粉仕上げ、見えないところはただの張りぼてなので分業で作ることができたのです。表面的にはリアルでありながら意外と簡単な構造であったことから参入障壁が低かったのでしょう。勿論それらの技法で作られた生き人形は壊れやすい物ですから現在それらを見ることは難しいです。現在我々が見ることができるのは訳あって木彫りなどで作られた頑丈なものだけというわけです。では松本喜三郎が行っていた生き人形興行とはどのようなものだったのでしょうか?当時の生き人形興業の興奮を伝える絵や文が残っているのでどのようなものだったか代表的なものを簡単に説明します。 小屋には口上師がいて見世物の内容を説明します。内容は海の外にある様々な奇妙な外国人が見れますよ!という内容です。中に入ると足の長い「足長国」の人、手の長い「手長国」の人などの奇怪な外国人のリアルな生き人形が見れます。小屋には廊下があり歩きながら奇妙なキャラ...

日本の土人形について考える

 前回の投稿で埴輪について少し触れたので今回は土人形について書いてみたいと思います。 埴輪は古墳時代に流行した土人形です。前回紹介した「今日の人形 鑑賞と技法」において日本人形の美の原点として紹介されています。埴輪以前の日本の土人形ですと有名な縄文土偶があります、今から遡ること13000年前に作られたものが発見されていますから日本の土人形の歴史はかなり古い歴史のあるものなのです。縄文土偶終わりと埴輪の始まりは700年程の時間のギャップがありますから同じ土人形と言ってもその機能、形状共に大きな違いがあります。縄文土偶は実に1万年以上に渡って作られたものですからヒトガタではありながら形も様々ですしその用途も実は良く分かっていません。しかしこの想像の余地が縄文土偶の特徴的な造形と相まって現代人に古代のロマンを喚起させる人形になっています。翻って埴輪のルーツは野見宿禰という人が作ったことが分かっています。昔は偉い人が亡くなると殉死といって周りの人たち(お手伝いさんや、奥さんなど)も一緒に死んでお墓に入らなければならない習俗が有り、それでは生きてる人が可哀想ですから人間の替わりに埴輪という人形を一緒のお墓に入れるよう習俗を改めましょうと天皇に進言したのが野見宿禰という人物です。但し考古学的には日本では殉死の習俗は一般的なものではなかったようなのでこれは一つの伝説と考えた方が良いかもしれません。余談ですが野見宿禰は日本で初めて相撲を取った人物としても有名です。その日本初の相撲の様子を生き人形師安本亀八が迫真の描写で作った生き人形が作品として残しています。埴輪を初めて作った人物が生き人形として残っているのは何かの因縁を感じますね。 埴輪は元々柱の様な形状のものがだんだんとヒトガタや動物型、身近な器物などの形状を取るようになります。兵士や踊り子、馬や猪、家や船などです。埴輪は高貴な死者の副葬品という用途で作られますがこの様な人形を「傭」と言います。中国では有名な兵馬俑、エジプトではウシャブティという「傭」が有り、どちらも埴輪と同じ様なモチーフを土人形で表現しています。このような事から古代人にとって「傭」は死後の世界を表現しているものと一般に考えられています。「傭」のモチーフは大抵現世に在るものですから死んでも現世と同じ様な世界があると当時の人達は考えていたのですね、なんか死...

創作人形批評とは

 前回の投稿で批評について言及したので批評について書いてみたいと思います。 現在批評という言葉は様々なジャンルで使われる言葉だと思います。映画、演劇、美術、漫画、JPOPと何でもありです。日本ではそれらをジャンルの外側から宣伝をする人達というイメージが強いですが海外の美術評論家は新しい価値観を創造する人たちとして社会的にも高いステータスを与えられていたりします。その為に大学で美術史を学んで教授職についていたり美術館の学芸員をしてキャリアを積むこともあるようです。ステ-タスに相応しい専門性を要求されているわけですね。そしてその専門性を背景に良い作品、悪い作品をより分けるのが批評家の仕事ということになります。日本だと作品にケチをつける意地悪な人達というイメージのある批評家ですが実際にはには光の当たっていない作品に新たな価値を見つけ出す人達というのが正確なところだと思います。例えば有名な音楽家であるモーツアルトは死後200年ほど経ってドイツの音楽評論家パウルベッカーによって素晴らしい音楽家として認められました。現在の感覚では信じられないことですが彼の批評が無ければモーツアルトは今でも無名のままだったのです。アートの世界ではロジャーフライという美術評論家が現在に至る美術の重要な人物であるピカソやマチス、セザンヌを発見しました。主にポスト印象派と呼ばれる画家たちに注目した彼はセザンヌやゴッホ、ゴーガンなどを自らの本国イギリスに紹介しました。当初それらの絵はまるで価値の認められていないヘタな絵とみなされていましたが彼の評論を通じて素晴らしい作品とみなされるようになりました。同時代の作家バージニアウルフは彼は一人で人々の価値観を変えてしまったと書き残しているほどなのです。日本でも美術評論家辻惟雄が書いた「奇想の系譜」という本では今まで取り上げられてこなかった絵師たちを取り上げ日本美術の見方に新しい角度を提供しました。この本の中では現在有名な伊藤若冲という絵師が取り上げられていますがこの本なしに今の名声はなかったと思います。この様に批評は新しい価値観を提起する事によって今まで知られていなかった作品や作者にスポットライトを当てて人々の価値観にまで影響を及ぼすことの出来る強力なメディアなのです。では人形では批評というものはどの様に作用していたのでしょうか。考察してみたいと思いま...

創作人形の国際化

 今回は自分が人形業界に入って以降体験した海外の創作人形についてのアレコレについて書いてみたいと思います。本当は70年代以降ぐらいから書いてみたいのですが何分にも資料がなく今回の投稿も私の記憶が頼りなので事実関係と違う点もあるかと思いますが何卒ご容赦ください。 私が人形業界に入ったのは90年代前半、後に球体関節人形展に参加する三輪輝子さんのアシスタントとして入った所から始まります。三輪輝子さんは当時から海外の人形事情を雑誌などを取り寄せて調べていました。当時欧米では創作人形のブームがあり市場も成熟しつつありました。特にアメリカは国土が広いですから雑誌は一種のカタログのようなもので通信販売の媒体でもあったわけです。この様なシステムに対応するため海外の創作人形は大なり小なり工房制作だったと思います。創作人形の通信販売をいち早く行っていた三輪輝子さんは自らドイツに足を運んで当地の人気作家であったグンツェルの工房を視察し工房運営の為のヒントを勉強したりしていました。その頃日本では後に球体関節人形展を企画する羽関チエコさんが創作人形の総合誌であるドールフォーラムジャパン(DFJ)を創刊し海外で活動する日本人作家の情報やアメリカの創作人形団体ニアダの情報なども紹介されるようになりました。三輪輝子さんの工房では当時一緒にアシスタントとして働いていた因間りかさんが国際的な人形コンクールでグランプリを受賞しプロ作家として工房から独立するなど国際的な状況が身近な状況に影響を及ぼすのを身をもって感じることが多かったと思います。 90年代の終わりころ私も独立して制作活動を始めていました。その頃羽関チエコさんは新世紀人形展という人形の公募展を立ち上げていました。国内外から人形を募集する人形公募展ということで特色のある公募展だったと思います。招聘された海外作家の人形のクオリティーの高さは当時の私にとって刺激になるものでした。羽関チエコさんはその後人形メーカーセキグチ(モンチッチで有名な会社です)が作ったセキグチドールガーデン(現在休館)の企画に参加して海外の創作人形の紹介に尽力します。今から考えると海外の創作人形の良品が国内で見ることができる幸運な時代だったと思います。 2000年代になると私にも海外のドールショーへ出品するチャンスがまわってきました。インファ2000というドイツのドー...

抒情性について考える

 前回の投稿で抒情性と人形ということを書いたので今回は抒情性について考察してみたいと思います。 前回紹介した通り抒情性というのは作者の心から沸き起こった感情が作品を通じて観客に伝播し感情を揺さぶる事という意味です。日本において抒情性というのは個人の人格、他者との関係性に重要な役割を果たしています、その事を文書においてはっきりさせたのは本居宣長という江戸時代の国学者です。日本という国は卑弥呼の時代よりお隣の中国の影響を受けて発展してきました。文字や法律、様々な技術、宗教に至るまで中国から学んだのです。その中でも儒教や道教や仏教は日本人の考え方そのものに大きな影響を与えました。本居宣長は中国から受けたそれらの影響を取り去ったら日本人の原型のようなものが見えてくるのではないかと考え古典の研究を始めました。そして日本で一番古い歌集である万葉集を手始めに日本で一番古い物語である古事記、大河ドラマでもおなじみの源氏物語を研究して日本人の深層を支えているのは自分や世界を抒情的に捉える日本人の姿勢であると考えました。そしてそれを「もののあわれ」と名付けました。「もののあわれ」は研究者でも色々と解釈に違いがあるのですが抒情的に物事を捉える姿勢でだいたいあっていると思います。個人的には「エモい」という若者言葉は近いニュアンスだと思います。英語のエモーショナルに語源を持つこの言葉は哀愁や情緒、切なさやノスタルジーなどの意味を複合的に持ち、風景を見たり、音楽を聴いたりして情動が動いた時まさに「エモい」という感情を呼び起こすのです。この様に万葉の昔から日本人の心根はそんなに大きく変わってはいないというわけですね。この様な考えは日本人てなんだろう?というアイデンティティに始めて出た一つの答えとなりました。西欧諸国と接触する幕末から明治維新にかけて日本人てこんな民族ですと対外的に言えるテキストになったわけです。しかし本居宣長の思想には抒情的でロマンチックな反面少々厄介な思想が隠れていた為後々色々問題が出てくるのです。 本居宣長は「もののあわれ」を感じる日本人をどの様に捉えていたかと言いますと「拙きしどけない」者たちと捉えていました。今風にいえばガキっぽくておまぬけさんみたいなニュアンスですね。その日本人の中で立派なのは天皇陛下一人なんだから余計な事考えずに天皇の御心と共に生きるこれが正し...

アートと人形

 前回ピカソについて書いたのでアートと人形について書いてみたいと思います。以前の投稿でハンスベルメールというアーチストについて書きましたがピカソはベルメールより少し前の時代の人となります。ピカソと言えば有名なカクカクとした輪郭線の人物画や静物画で有名なアートの巨匠です。アーチストは自由に創作する人達と書きましたがピカソにとってそれは子供のように無垢な気持ちで制作するということでした。美術教師の子供に生まれたピカソは子供の頃から絵の指導を親から受けていたので子供のように伸び伸び絵を描くという子供時代がなかったのです,それで大人になってからその大事さに気が付いたと言うわけです。ピカソがその様な絵を描いて成功するとそもそも絵を学校で教えたり、美術館に絵を飾ったりということに疑念が生まれてきます。何故なら元来子供の絵はその様な制度の外側に存在しているからです。美術というものは元々王様や教会やお金持ちの権威をひけらかすための道具でしたので美術は立派なものという認識がありました、ピカソの絵の成功はその旧来の認識、美術の権威を揺るがす事になりました。そしてそれは反芸術運動というものを生み出すことに繋がります。 反芸術運動は今までの美術の概念を壊そうという考えの人達が集まり絵や詩など様々なアプローチでそれを実現しようとした運動でした。シュルレアリスもその運動の一つですが元々はダダという運動が発端です。ダダというのは簡単にいうと「意味なし」なものを作るということです。意味というのは制度や習慣が無自覚に人間の心の深層に刻み付けたものです。であればそれらを生み出す宗教や法律、常識、それら価値観を生み出す国家や宗教、家族やコミュニティーは信頼に足りる価値を持っていなければならないということです。しかしそれらを代表するキリスト教の持つ価値観は近代になると崩れ戦争が頻発します。貧富の差は拡大し公害が人々の健康を損なっています。これでは国家や宗教を信じろと言っても無理な話です。自分たちを支えていた何かを行う上での意味って疑わしいものなんじゃないか?なら「意味なし」なものを作って世の中を笑ってやろうとして始まったのがダダです。なのでダダには美しい物を作るのが美術というような常識はありません。元々意味が無いので作品を見ても何がやりたいのかさっぱり分かりません。そんなダダのアーチストの中で最も...

手作りと人形

 手芸にせよ工芸にせよそれは人の手を介して物を作り上げる行為に変わりありません。古来より人間は全ての物を自らの手で作り上げてきたわけですから手作りするいうと行為が特別な意味を持ったのは何かのきっかけがあったということです。そのきっかけを探ったら何が見えてくるのか考察してみたいと思います。 手芸が国の政策で日本の女子に広がっていったことは前回の投稿で紹介しましたが日本の女性が手芸を習うきっかけになったのは当時イギリスの女王であったヴィクトリアという人の存在があります。ヴィクトリア女王は名君としてイギリスを統治しただけでなく沢山の子供を産み育て良妻賢母の誉れの高い方でした。今でいえば非の打ち所の無いスーパーセレブといったところでしょうか。またヴィクトリア女王は手芸の腕前も素晴らしかったのです。日本の近代化はヨーロッパの文化を真似するところから始まるのですが近代的な女性のお手本はヴィクトリア女王となるわけです。ではなんでヴィクトリア女王は手芸が上手なのかと言いますとそれがその当時の女性に割り与えられた役割だったからです。前回専業主婦について書きましたが日本で明治時代に女性に起こった変化はイギリスでは一足先に起こっていたわけです。では手芸で作られる刺繡やレース,造花が何故生活を豊かにするということになるかというと当時は都市生活者が増え自然から切り離された生活をせざるを得ない人が増えてきたからなのです。人工的な自然を造花や刺繡やレースの植物文様などに求めたわけですね。当時のイギリスは産業革命という時代で工場で物をたくさん作ってそれを輸出して国を運営していました。世の中には使いきれないほどの商品が溢れるようになり輸出で儲かった富は中産階級や上流階級を潤しました。しかし今まで農村でのんびりと手作りで物を作って生活していた職人たちは一転工場のある公害だらけの都会でサラリーマンにならざるを得なくなったのです。こんな矛盾に意義を申し立てたのがジョンラスキンという思想家です。 ラスキンは産業革命で豊かになったイギリスに批判的でした。工場ができて物は安く大量に作れるようになったけどそこで作られるものは画一的で美しくない。そんなものに囲まれて生きて人間は幸せになれるのか?手作りの品に囲まれた中世の昔の方がよっぽど幸せだったんじゃ?と考えたのです。そんな中世の工房の世界に戻って豊かな生...

手芸と人形

 前回リプロダクションというホビー(趣味)を紹介しました。リプロダクションはアンティークドールのモールド(石膏型)を使い人形のビスクヘッド(磁器製の人形パーツ)を作成して市販のボディーに取り付けて人形を完成させ、服を制作してその出来を先生に判定してもらうという競技性もあるホビーです。目標は国際大会で1位になることで生徒さんは職人さながら制作に励む事になります。難しい所はビスクヘッドを綺麗に加工しチャイナペインティングという技法で化粧を施す事ですが作業の大半は衣装づくりの工程です。衣装製作は手芸の能力がものをいうので手芸が学校で必修科目であった時代の中年女性がホビーの中心を構成していました。この事はファッションドールが創作人形に登場して以降、創作人形の世界でも顕著になってきた現象でした。人形制作における衣装制作の比重が高まったと言うわけです。私が人形業界に入った頃そこに携わる人の大半は女性でありましたし現在でも人形作家の大半は9対1で女性です。それは手芸と女性の関わりが原因と思いますので歴史をさかのぼって考察してみたいと思います。 明治の文明開化が起こり日本の近代化と共に国策として美術という概念が入って来たという事は以前の投稿で紹介したのでご記憶の方もいると思います。当時美術は美術教育という形で学校で教えるものと規定されました。学校というのも明治になって政府が作ったシステムです。これで師匠に弟子入りして技術を身に着けるという慣習は古いものになったわけです。そして現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校ができ美術教育が始まります。しかしここには女性は入学する事ができなかったのです。国策として女性が美術に関われないとは現代では考えられないことですがそれだけ当時の女性の社会的地位は低かったのです。その代わりに国家が女性に割り与えられたのが手芸だったのです。その手芸とは当時裁縫のことを指し小学校高学年では必修科目でした。さらに実業系の学校が設立されると手芸には編み物、組紐、刺繡、造花などが含まれるようになりました。しかしこれらの技術は女性が経済的な自立の為に使うものというよりも結婚した後に旦那様や子供に豊かな生活を与えることを目的としたものでした。社会の分業化が進むとともに都市部にはサラリーマンという職種が生まれました。同時に専業主婦という社会的なカテゴリーも生まれ...

ファッションドールについて考える

 前回ファッションドールについてチョット触れたので今回はファッションドールについて書いてみようと思います。但し伝統的な人形におけるファッションドールについてというよりも前回紹介した「球体関節人形」に繋がるスタイルとして現在隆盛を誇っている着せ替え人形(ファッションドール)について書いてみます。 そもそもファッションドールは19世紀ヨーロッパで生まれた流行のファッションスタイルを宣伝する為に作られた人形のことです。今でいえばマネキンみたいなものですね。当時服は全てオーダーメイドでしたから今のようにお店で服を選ぶことができなかったのです。そこで仕立て屋さんが人形をもって営業していたわけです。「こんな服いかがでしょうか」みたいに。しかし人形の出来も良かったので次第に人形も売るようになりました。そんな中ヨーロッパでは日本ブーム(ジャポニズム)が起こります。日本の陶芸や浮世絵がゴッホやガレなどのヨーロッパのアートに影響を与える中、日本の市松人形もファッションドールに影響を与えます。皆さんご存知のべべタイプというファッションドールが生まれたのはこの時です。べべタイプというのは4頭身のいわゆるアンティークビスクドールと言われるあれです。市松人形によくバランスが似てますよね。この西洋アンティークドールがその後実に100年という時を越えて日本の創作人形に影響を与えることになります。 西欧に対する憧れのような気持ちは明治以降日本人の深層に沈着したトラウマみたいなものでした。太古の昔から日本人の憧れの国はお隣の大国中国でした。アートも政治も考え方も中国風がCOOLだったのです。しかし江戸時代末期に色々あって中国は落ちぶれてしまうのですね。それでこれからはヨーロッパがいいじゃん!となったのです、そうなるとアートも政治もヨーロッパ風となります。文豪の森鷗外も子供達にオットー、マリー、フリッツ、アンヌ、ルイなんて名前を付けたりしてますので当時の雰囲気がご理解いただけると思います。そんなことでしたから人形もヨーロッパのもの特に「フランス人形」は子供のあこがれる物の代名詞となりました。そんなフランス人形の実物に庶民が接することができるようになったのは日本の敗戦以降の高度成長期となります。海外旅行がブームとなり誰でも憧れのフランスにも行けるようになりました。するとどうでしょう憧れのフランス人...

球体関節人形展を振り返る

 前回の投稿で球体関節人形展について触れたので今回はその事を書きたいと思います。球体関節人形展は2004年東京都現代美術館で行われた球体関節人形スタイルの創作人形を取り上げた展覧会です。ハンスベルメールから始まった球体関節人形のスタイルをそれを日本に広めた四谷シモンを歴史の起点に置き、約30年の歴史をそのスタイルで制作してきた人形作家の作品を配置することで概観するというものでした。当時私も若手作家の一人として参加しました。先輩の作家たちはまさに雲の上の存在でしたから緊張と期待が入り混じった興奮の中にありました。しかし20年の年月が流れ私も当時の先輩たちと同じぐらいの年齢になり、振り返って球体関節人形展って何だったのか考えてみるのも良いと考えました。どんな結論になるか考えずに書き進めたいと思います。 ハンスベルメールはこの展示の起点になる作家ですプロフィールについては前回の投稿で紹介したのでご一読ください。詳しく知りたい人は「死、欲望、人形」というベルメールの評伝がでていますのでそちらをどうぞ。そのハンスベルメールという作家と日本の創作人形作家を結びつけたのが前回も紹介した澁澤龍彦と言う文学者でした。澁澤龍彦は西欧の中世から現代にかけて人間の深層にあるダークな部分が生み出す幻想、それをテーマにしたアート作品、文学を日本に紹介した人物です。ですから彼の選んだ作品は美術史の本流というよりは傍流と言える変わった作品がメインでした。ですからまともにアートの文脈でとらえられたことのない人形という分野はその中で重要な位置を占めていたわけです。古の錬金術師が持っていた、無生物に新たな生命を生み出すという欲望を、中世の自動人形からハンスベルメールに至るまで古の錬金術師同じように持ち続けたのが澁澤龍彦と言う人物であったと私は思います。その澁澤龍彦と初めに作品を通じて接触したのが土井典という作家です。球体関節人形展出品者では一番の年長者1928年生まれとなります。その土井さんは1968年澁澤龍彦の依頼で少女の人形を制作します。その翌年には澁澤龍彦の依頼でハンスベルメールの球体関節人形のレプリカを制作しています。このようにシュルレアリスムという文脈で作られた球体関節人形を日本で始めて作ったのは土井典さんということになるわけです。展示のメインを務めた四谷シモンさんも澁澤龍彦サロンの住...