球体関節人形展を振り返る

 前回の投稿で球体関節人形展について触れたので今回はその事を書きたいと思います。球体関節人形展は2004年東京都現代美術館で行われた球体関節人形スタイルの創作人形を取り上げた展覧会です。ハンスベルメールから始まった球体関節人形のスタイルをそれを日本に広めた四谷シモンを歴史の起点に置き、約30年の歴史をそのスタイルで制作してきた人形作家の作品を配置することで概観するというものでした。当時私も若手作家の一人として参加しました。先輩の作家たちはまさに雲の上の存在でしたから緊張と期待が入り混じった興奮の中にありました。しかし20年の年月が流れ私も当時の先輩たちと同じぐらいの年齢になり、振り返って球体関節人形展って何だったのか考えてみるのも良いと考えました。どんな結論になるか考えずに書き進めたいと思います。

ハンスベルメールはこの展示の起点になる作家ですプロフィールについては前回の投稿で紹介したのでご一読ください。詳しく知りたい人は「死、欲望、人形」というベルメールの評伝がでていますのでそちらをどうぞ。そのハンスベルメールという作家と日本の創作人形作家を結びつけたのが前回も紹介した澁澤龍彦と言う文学者でした。澁澤龍彦は西欧の中世から現代にかけて人間の深層にあるダークな部分が生み出す幻想、それをテーマにしたアート作品、文学を日本に紹介した人物です。ですから彼の選んだ作品は美術史の本流というよりは傍流と言える変わった作品がメインでした。ですからまともにアートの文脈でとらえられたことのない人形という分野はその中で重要な位置を占めていたわけです。古の錬金術師が持っていた、無生物に新たな生命を生み出すという欲望を、中世の自動人形からハンスベルメールに至るまで古の錬金術師同じように持ち続けたのが澁澤龍彦と言う人物であったと私は思います。その澁澤龍彦と初めに作品を通じて接触したのが土井典という作家です。球体関節人形展出品者では一番の年長者1928年生まれとなります。その土井さんは1968年澁澤龍彦の依頼で少女の人形を制作します。その翌年には澁澤龍彦の依頼でハンスベルメールの球体関節人形のレプリカを制作しています。このようにシュルレアリスムという文脈で作られた球体関節人形を日本で始めて作ったのは土井典さんということになるわけです。展示のメインを務めた四谷シモンさんも澁澤龍彦サロンの住人ではありましたが初個展は1973年ですからその辺を展示の中で強調しなかったのは惜しいことだと思います。

土井典さんが澁澤龍彦に依頼された人形を作った時四谷シモンさんは23歳、他球体関節人形展出品者だと中村寝郎さん、三輪輝子さん20歳、よねやまりゅうさん19歳、秋山まほこさん、山本じんさん17歳(山吉由利子さんは年齢非公開ですがこの辺です多分w)、吉田良さん16歳。その後1974年に澁澤龍彦が書いた「人形愛序説」という本が出ますので。多感な青春期に澁澤龍彦がその後人形作家となる若者たちに影響を与えたのは間違いのないことだと思います。(生年は球体関節人形展図録より)

手元に1981年に発行された美術手帖があります。「現代の人形たち」というタイトルの人形の特集号です。美術雑誌に人形が取り上げられるなど今では想像すらできませんがこの辺りに当時創作人形が置かれていた社会的な立ち位置が読み取れると思います。この本には球体関節人形展に出品している作家も多数紹介されています。掲載順に紹介しますと、ハンスベルメール、吉田良、四谷シモン、中村寝郎、山本じん、天野可淡、片岡昌、土井典(敬称略)となります、掲載者の半分ぐらいでしょうか。ともあれシモンさんの初個展以降10年足らずでこれだけの作家が世に出てきたのですね。球体関節人形展で若手だった私達月光社、井桁裕子さん、三浦悦子さんは1967,8年生まれの同世代ですのでご一緒した先輩たちとは20年の年齢の開きがあります。10代の私が体験した澁澤龍彦の影響は当時文庫化された本や「夜想」というその手の内容を書いた雑誌で知ることができた程度でした。創作人形の情報が少ない中1985年に発売された四谷シモンさんの写真集「人形愛」1987年に発売された吉田良さんの写真集「星体遊戯」90年代にトレヴィルから発売された幾つかの人形写真集の方がより当時の若者の人形への興味を引いたと記憶しています。こういう流れが年の離れた先輩たちと我々を結びつけた原因だと考えています。

この様に球体関節人形というスタイルを俯瞰してみると如何に澁澤龍彦という人が考えた人形観、美学が長きにわたって影響を及ぼしていたかということがおわかりいただけたと思います。この澁澤龍彦様式球体関節人形とでも呼べるスタイルは今でも大きな影響を陰ひなたに球体関節人形というスタイルに影響を与えていると思います。土井典さんが澁澤龍彦さんの為人形を人形を作ったのは私の生年と一致しますからもう約60年近くの歴史のある話となったわけですね。そんな球体関節の歴史を俯瞰した展示、球体関節人形展の図録にはこの企画を立ち上げた羽関チエコさんの辛辣な文が掲載されています、内容を要約すれば「球体関節というスタイルは終わっている、ファッションドール(着せ替え人形)を除けば。ベルメールを起点とした創作人形の道程はこれからの創作人形においては一つのファクターに過ぎない」(言葉はずいぶん変えたので是非原文で読んで下さい)展示を企画した人間が球体関節人形はオワコンで生き残るのはファッションドール。いつまでもベルメールの幻想にとらわれているんじゃないと檄文を寄せているわけです。クレイジーだと思います。でも20年たってファッションドールが全盛となり澁澤龍彦様式の球体関節人形がコモディティ化(一般的になった)したというのもまた事実だと思います。ですからその洞察力には脱帽するほかありません。しかし本当に球体関節人形は終わってしまったのでしょうか?話を続けます。

先程ざっくり澁澤龍彦様式球体関節人形と書きましたがそれらは1968年当時若者だった先述の人形作家の卵たちが相互に影響しあいながら様々なアートやサブカルチャーの要素を巧みに球体関節人形という様式に反映させ昇華させていった結果であるというのが正確な事実だと思います。なので日本における「球体関節人形」というワードには澁澤龍彦の好みであった幻想美術やシュルレアリスム、錬金術や幻獣などの様々な要素が明示されず織り込まれています。「球体関節人形」は外形的な様式を超えた概念的な発明のようなものでしたから70年代以降それががイコール「創作人形」というイメージになったのは無理からぬことだったと思います。その後現在まで概念を含めた「球体関節人形」は量産品のドールや海外の人形作家、漫画や小説にも影響を与えたので羽関チエコさんが20年前球体関節人形というスタイルは終焉したと図録に書いたのは正確には90年代初頭には様式が完成してしまった、言い換えれば古典(クラシック)になったというのが正確な言い方ではないかと思います。音楽におけるクラシックや狂言などの伝統芸能は古典を原点とする表現ですがネガティブな印象は無いと思います、どうみたって伝統芸能も立派なアートです。確かにクラシックや伝統芸能は再現芸術、解釈芸術ですがだれもカラヤンや野村萬斎がアーチストでないとはいわないでしょう。でもそれはそれを作った先達した人々に対するストイックなまでの深い敬意、作品への理解があってのことだと言うことを忘れてはいけません、彼らはそれがあるが故にアーチストなのです。伝統芸能にたずさわる人々が繰り返し言うことはつまらないものは伝統芸能にならないと言う言葉です。60年の月日に耐えた球体関節人形という様式も同じ様につまらないものではないと思うのですが皆さんはどう思われるでしょうか?

20年前球体関節人形展に参加したとき一番印象に残ったのは先輩作家たちが自分の表現に揺るぎない自信を持ち続けているという事実でした。羽関チエコさんが図録で書いていたような感想は私の中にも少なからずあったのものですから先輩たちの作品がどこか回顧的に見えていました。だから作品同様彼らも老成しているかと思っていたわけですね。しかし彼らは1981年の美術手帖の時のまま自分の作品を如何にアートとして昇華していくかという情熱を失ってはいなかったのです。その時始めて思ったのがこれが人形作家か!という感想です。本当に皆さんかっこよかったです。当時私は純粋な職業として制作活動していたので人形作家とは名乗っていませんでしたし作家としての深い自覚もありませんでした。しかし彼らと出合った事で私は人形作家になろうと決意しました。まさに人生の分岐点というやつです、その後の道のりは決して楽なものではありませんでしたが「彼らに追いつきたい」ただそれだけの気持ちで何とか今までやってたようなものです。20年経って自分はどれほどのモノになれたのかは分かりません、でも今の自分があるのは球体関節人形展があったからだったというのは改めて本文を書いていて自覚したことです。本当に人生って不思議なものですね。

                            月光社 つじとしゆき



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