投稿

アートと人形

 前回ピカソについて書いたのでアートと人形について書いてみたいと思います。以前の投稿でハンスベルメールというアーチストについて書きましたがピカソはベルメールより少し前の時代の人となります。ピカソと言えば有名なカクカクとした輪郭線の人物画や静物画で有名なアートの巨匠です。アーチストは自由に創作する人達と書きましたがピカソにとってそれは子供のように無垢な気持ちで制作するということでした。美術教師の子供に生まれたピカソは子供の頃から絵の指導を親から受けていたので子供のように伸び伸び絵を描くという子供時代がなかったのです,それで大人になってからその大事さに気が付いたと言うわけです。ピカソがその様な絵を描いて成功するとそもそも絵を学校で教えたり、美術館に絵を飾ったりということに疑念が生まれてきます。何故なら元来子供の絵はその様な制度の外側に存在しているからです。美術というものは元々王様や教会やお金持ちの権威をひけらかすための道具でしたので美術は立派なものという認識がありました、ピカソの絵の成功はその旧来の認識、美術の権威を揺るがす事になりました。そしてそれは反芸術運動というものを生み出すことに繋がります。 反芸術運動は今までの美術の概念を壊そうという考えの人達が集まり絵や詩など様々なアプローチでそれを実現しようとした運動でした。シュルレアリスもその運動の一つですが元々はダダという運動が発端です。ダダというのは簡単にいうと「意味なし」なものを作るということです。意味というのは制度や習慣が無自覚に人間の心の深層に刻み付けたものです。であればそれらを生み出す宗教や法律、常識、それら価値観を生み出す国家や宗教、家族やコミュニティーは信頼に足りる価値を持っていなければならないということです。しかしそれらを代表するキリスト教の持つ価値観は近代になると崩れ戦争が頻発します。貧富の差は拡大し公害が人々の健康を損なっています。これでは国家や宗教を信じろと言っても無理な話です。自分たちを支えていた何かを行う上での意味って疑わしいものなんじゃないか?なら「意味なし」なものを作って世の中を笑ってやろうとして始まったのがダダです。なのでダダには美しい物を作るのが美術というような常識はありません。元々意味が無いので作品を見ても何がやりたいのかさっぱり分かりません。そんなダダのアーチストの中で最も有名なの

手作りと人形

 手芸にせよ工芸にせよそれは人の手を介して物を作り上げる行為に変わりありません。古来より人間は全ての物を自らの手で作り上げてきたわけですから手作りするいうと行為が特別な意味を持ったのは何かのきっかけがあったということです。そのきっかけを探ったら何が見えてくるのか考察してみたいと思います。 手芸が国の政策で日本の女子に広がっていったことは前回の投稿で紹介しましたが日本の女性が手芸を習うきっかけになったのは当時イギリスの女王であったヴィクトリアという人の存在があります。ヴィクトリア女王は名君としてイギリスを統治しただけでなく沢山の子供を産み育て良妻賢母の誉れの高い方でした。今でいえば非の打ち所の無いスーパーセレブといったところでしょうか。またヴィクトリア女王は手芸の腕前も素晴らしかったのです。日本の近代化はヨーロッパの文化を真似するところから始まるのですが近代的な女性のお手本はヴィクトリア女王となるわけです。ではなんでヴィクトリア女王は手芸が上手なのかと言いますとそれがその当時の女性に割り与えられた役割だったからです。前回専業主婦について書きましたが日本で明治時代に女性に起こった変化はイギリスでは一足先に起こっていたわけです。では手芸で作られる刺繡やレース,造花が何故生活を豊かにするということになるかというと当時は都市生活者が増え自然から切り離された生活をせざるを得ない人が増えてきたからなのです。人工的な自然を造花や刺繡やレースの植物文様などに求めたわけですね。当時のイギリスは産業革命という時代で工場で物をたくさん作ってそれを輸出して国を運営していました。世の中には使いきれないほどの商品が溢れるようになり輸出で儲かった富は中産階級や上流階級を潤しました。しかし今まで農村でのんびりと手作りで物を作って生活していた職人たちは一転工場のある公害だらけの都会でサラリーマンにならざるを得なくなったのです。こんな矛盾に意義を申し立てたのがジョンラスキンという思想家です。 ラスキンは産業革命で豊かになったイギリスに批判的でした。工場ができて物は安く大量に作れるようになったけどそこで作られるものは画一的で美しくない。そんなものに囲まれて生きて人間は幸せになれるのか?手作りの品に囲まれた中世の昔の方がよっぽど幸せだったんじゃ?と考えたのです。そんな中世の工房の世界に戻って豊かな生活を取り

手芸と人形

 前回リプロダクションというホビー(趣味)を紹介しました。リプロダクションはアンティークドールのモールド(石膏型)を使い人形のビスクヘッド(磁器製の人形パーツ)を作成して市販のボディーに取り付けて人形を完成させ、服を制作してその出来を先生に判定してもらうという競技性もあるホビーです。目標は国際大会で1位になることで生徒さんは職人さながら制作に励む事になります。難しい所はビスクヘッドを綺麗に加工しチャイナペインティングという技法で化粧を施す事ですが作業の大半は衣装づくりの工程です。衣装製作は手芸の能力がものをいうので手芸が学校で必修科目であった時代の中年女性がホビーの中心を構成していました。この事はファッションドールが創作人形に登場して以降、創作人形の世界でも顕著になってきた現象でした。人形制作における衣装制作の比重が高まったと言うわけです。私が人形業界に入った頃そこに携わる人の大半は女性でありましたし現在でも人形作家の大半は9対1で女性です。それは手芸と女性の関わりが原因と思いますので歴史をさかのぼって考察してみたいと思います。 明治の文明開化が起こり日本の近代化と共に国策として美術という概念が入って来たという事は以前の投稿で紹介したのでご記憶の方もいると思います。当時美術は美術教育という形で学校で教えるものと規定されました。学校というのも明治になって政府が作ったシステムです。これで師匠に弟子入りして技術を身に着けるという慣習は古いものになったわけです。そして現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校ができ美術教育が始まります。しかしここには女性は入学する事ができなかったのです。国策として女性が美術に関われないとは現代では考えられないことですがそれだけ当時の女性の社会的地位は低かったのです。その代わりに国家が女性に割り与えられたのが手芸だったのです。その手芸とは当時裁縫のことを指し小学校高学年では必修科目でした。さらに実業系の学校が設立されると手芸には編み物、組紐、刺繡、造花などが含まれるようになりました。しかしこれらの技術は女性が経済的な自立の為に使うものというよりも結婚した後に旦那様や子供に豊かな生活を与えることを目的としたものでした。社会の分業化が進むとともに都市部にはサラリーマンという職種が生まれました。同時に専業主婦という社会的なカテゴリーも生まれましたの

ファッションドールについて考える

 前回ファッションドールについてチョット触れたので今回はファッションドールについて書いてみようと思います。但し伝統的な人形におけるファッションドールについてというよりも前回紹介した「球体関節人形」に繋がるスタイルとして現在隆盛を誇っている着せ替え人形(ファッションドール)について書いてみます。 そもそもファッションドールは19世紀ヨーロッパで生まれた流行のファッションスタイルを宣伝する為に作られた人形のことです。今でいえばマネキンみたいなものですね。当時服は全てオーダーメイドでしたから今のようにお店で服を選ぶことができなかったのです。そこで仕立て屋さんが人形をもって営業していたわけです。「こんな服いかがでしょうか」みたいに。しかし人形の出来も良かったので次第に人形も売るようになりました。そんな中ヨーロッパでは日本ブーム(ジャポニズム)が起こります。日本の陶芸や浮世絵がゴッホやガレなどのヨーロッパのアートに影響を与える中、日本の市松人形もファッションドールに影響を与えます。皆さんご存知のべべタイプというファッションドールが生まれたのはこの時です。べべタイプというのは4頭身のいわゆるアンティークビスクドールと言われるあれです。市松人形によくバランスが似てますよね。この西洋アンティークドールがその後実に100年という時を越えて日本の創作人形に影響を与えることになります。 西欧に対する憧れのような気持ちは明治以降日本人の深層に沈着したトラウマみたいなものでした。太古の昔から日本人の憧れの国はお隣の大国中国でした。アートも政治も考え方も中国風がCOOLだったのです。しかし江戸時代末期に色々あって中国は落ちぶれてしまうのですね。それでこれからはヨーロッパがいいじゃん!となったのです、そうなるとアートも政治もヨーロッパ風となります。文豪の森鷗外も子供達にオットー、マリー、フリッツ、アンヌ、ルイなんて名前を付けたりしてますので当時の雰囲気がご理解いただけると思います。そんなことでしたから人形もヨーロッパのもの特に「フランス人形」は子供のあこがれる物の代名詞となりました。そんなフランス人形の実物に庶民が接することができるようになったのは日本の敗戦以降の高度成長期となります。海外旅行がブームとなり誰でも憧れのフランスにも行けるようになりました。するとどうでしょう憧れのフランス人形がガラ

球体関節人形展を振り返る

 前回の投稿で球体関節人形展について触れたので今回はその事を書きたいと思います。球体関節人形展は2004年東京都現代美術館で行われた球体関節人形スタイルの創作人形を取り上げた展覧会です。ハンスベルメールから始まった球体関節人形のスタイルをそれを日本に広めた四谷シモンを歴史の起点に置き、約30年の歴史をそのスタイルで制作してきた人形作家の作品を配置することで概観するというものでした。当時私も若手作家の一人として参加しました。先輩の作家たちはまさに雲の上の存在でしたから緊張と期待が入り混じった興奮の中にありました。しかし20年の年月が流れ私も当時の先輩たちと同じぐらいの年齢になり、振り返って球体関節人形展って何だったのか考えてみるのも良いと考えました。どんな結論になるか考えずに書き進めたいと思います。 ハンスベルメールはこの展示の起点になる作家ですプロフィールについては前回の投稿で紹介したのでご一読ください。詳しく知りたい人は「死、欲望、人形」というベルメールの評伝がでていますのでそちらをどうぞ。そのハンスベルメールという作家と日本の創作人形作家を結びつけたのが前回も紹介した澁澤龍彦と言う文学者でした。澁澤龍彦は西欧の中世から現代にかけて人間の深層にあるダークな部分が生み出す幻想、それをテーマにしたアート作品、文学を日本に紹介した人物です。ですから彼の選んだ作品は美術史の本流というよりは傍流と言える変わった作品がメインでした。ですからまともにアートの文脈でとらえられたことのない人形という分野はその中で重要な位置を占めていたわけです。古の錬金術師が持っていた、無生物に新たな生命を生み出すという欲望を、中世の自動人形からハンスベルメールに至るまで古の錬金術師同じように持ち続けたのが澁澤龍彦と言う人物であったと私は思います。その澁澤龍彦と初めに作品を通じて接触したのが土井典という作家です。球体関節人形展出品者では一番の年長者1928年生まれとなります。その土井さんは1968年澁澤龍彦の依頼で少女の人形を制作します。その翌年には澁澤龍彦の依頼でハンスベルメールの球体関節人形のレプリカを制作しています。このようにシュルレアリスムという文脈で作られた球体関節人形を日本で始めて作ったのは土井典さんということになるわけです。展示のメインを務めた四谷シモンさんも澁澤龍彦サロンの住人ではあ

四谷シモンについて考える

 前回の投稿で人形作家辻村ジュサブローを取り上げたので今回は人形作家四谷シモンを取り上げようと思います。(本文ではいつも私が呼んでいるシモンさんで話をします。)なぜかと言うと私が人形作家を志したきっかけが彼の作品だったからです。学校に通っていたころ学校の近くに彼の作品を置いてある喫茶店があり放課後通っては何時間も作品の前でお茶を飲んだのものです。そしていつかこんな作品が作れたらいいなぁと思い続け、結果紆余曲折の末人形作家となることが出来ました。そんな自分の人生のターニングポイントになったシモンさんの作品について個人的な考えを書きたいと思います。 シモンさんは言わずと知れた人形作家です。功績としては球体関節人形というスタイルを日本に普及させたというのが大きいと思います。元々役者でもありますし絵や随筆も書くマルチなアーチストでもあります。篠山紀信が彼の作品を撮った写真集「人形愛」の発表はは工芸的な枠にとどまっていた創作人形をより広い大衆に向けて知らしめることになりその後に続く人形作家のロールモデルとなっていきました。その写真集のタイトルである人形愛という言葉を作ったのが澁澤龍彦と言う文学者です。人形愛という言葉は語源はギリシャ神話に依拠しています。そのギリシャ神話にピグマリオンと言うキャラクターが出てきます、ピグマリオンは自分の作った彫刻の女性に恋してしまい最後は神様の助けを借りて結ばれます。この物語のいわれから人形を偏愛することを「人形愛」と名付けたわけです。では何故澁澤龍彦の言葉がタイトルに使われていたかというとシモンさんの作品を高く評価していたのが彼だったからですね。シモンさんが特集されている当時の雑誌を見ると澁澤龍彦をはじめ版画家の池田満寿夫、美術評論家の種村季弘など当時のそうそうたる文化人が寄稿していますので如何にシモンさんの作品が衝撃的なものだったかわかると思います。今だったら平野啓一郎と村上隆と椹木野衣が推してくれるような感じでしょうかw。この様にシモンさんの作品は工芸を志向する事でステップアップする今までの人形作家の生き方以外にも別の生き方、例えばアートや文学といった文脈で作品を評価してもらうことが出来る事を証明したということで画期的だったのです。また文筆を通して自分の考えをを述べて作品の背景にある自分自身をアピールしたのも現代的な行動だっとと思います。

人形作家とは何か

 創作人形を作っている人は大抵自分の事を人形作家と称していることが多いです。ドールアーチストなどと称することもあります、現代的な言い方ですが他の表現分野との兼ね合いを考えれば正しい言い方のような気もします。でも作家とかアーチストって何なんでしょうか?今回は作家って一体何なのか考察してみようと思います。 日本の人形シーンにおいて人形作家のパイオニアは明治から昭和にかけて活躍した久保佐四郎という人形作家だと言われています。なんでこの人がパイオニアといわれるかというと当時分業で作られていた人形を全部自分一人で作ったからだと言われています。しかし同時代人である彫刻家のロダンは作品製作を工房単位で行っていました。それでも偉大な作家という評価だったのです。この事は作家という概念の理解に何らの誤解が生じていたのが原因だと考えられますので作家(便宜的にアーチストをこう呼ぶことにします)とは何なのか歴史をさかのぼって考察してみようと思います。 作家の起源はルネッサンス期のイタリアであるといわれています。当時絵画や彫刻は王侯貴族や教会、大商人といった上流階級から依頼を受けて工房が制作するものでした。数十人の人々が絵の具作りや額づくりまで分業で制作にあたっていました。現在のひな人形の工房やアニメスタジオによく似てますね。しかし不況がやってきて仕事の依頼が減ってしまい工房は職人さんを雇っていられなくなったのです、今でいうリストラですね。そして工房を離れた職人は分業でおこなっていた作業を自分でやらざるを得なくなりました。作家が全部作るという認識は多分この辺にあると思います。しかし作家の誕生にはもう一つ重要な要素があるので続けて説明したいと思います。 ルネサンスが訪れる前ヨーロッパでは十字軍というイスラム教国家との戦争の時代がありました戦争は残酷なものだったのですが戦利品としてのイスラム世界に保管されていた古代ギリシャの書物を持ち帰ることができました。ルネッサンス期はそれらの書物がイタリア語に翻訳され特にギリシャ哲学の内容が当時の人々に大きなショックを与えた時期でもありました。どんなショックかと言えばそこには人間中心主義という現代の我々にもなじみある考えが書かれていたからです。キリスト教の聖典である聖書を中心に生活や政治が行われていた当時からすればそれはとんでもない考えだったのです。聖書の中に