生き人形について考える

 前回の投稿で生き人形師安本亀八について触れたので今回は生き人形について書いてみたいと思います。

生き人形というのはその名の通りリアルに作られた等身大の人形のことです。生きている様に見えることから「生き人形」と呼ばれます。「活き人形」と書くこともありますが意味は同じです。私が生き人形というものを初めて見たのは20代前半のことだったと思います、京都で人形店を経営していた青山さんという方が東京で販売会を行った時に会場に持ち込んだ物がそれでした。それは山本福松という人が作った等身大のおかっぱ頭の少女像でびっくりするようなリアルな人形でした。多分当時人形作家を目指していた若者たちは大なり小なり昔の名人たちの作った生き人形に「球体関節人形」以降の創作人形の可能性を見出していたのではないかと思います。ではそんな生き人形とはそもそもどの様な人形だったのでしょうか?以下説明したいと思います。

生き人形の歴史は江戸時代末期の1850年頃のことと言われています。この頃には様々な人形を使った見世物が流行しておりその中から熊本出身の松本喜三郎という人形師が行った生き人形興行が大当たりします。その流行に乗っかる形で沢山の生き人形師が生まれてきます、冒頭紹介した安本亀八や山本福松はその中の一人ということになります。沢山の生き人形師が生まれた背景には生き人形の構造に原因があります。生き人形は見えるところは紙張り子に胡粉仕上げ、見えないところはただの張りぼてなので分業で作ることができたのです。表面的にはリアルでありながら意外と簡単な構造であったことから参入障壁が低かったのでしょう。勿論それらの技法で作られた生き人形は壊れやすい物ですから現在それらを見ることは難しいです。現在我々が見ることができるのは訳あって木彫りなどで作られた頑丈なものだけというわけです。では松本喜三郎が行っていた生き人形興行とはどのようなものだったのでしょうか?当時の生き人形興業の興奮を伝える絵や文が残っているのでどのようなものだったか代表的なものを簡単に説明します。

小屋には口上師がいて見世物の内容を説明します。内容は海の外にある様々な奇妙な外国人が見れますよ!という内容です。中に入ると足の長い「足長国」の人、手の長い「手長国」の人などの奇怪な外国人のリアルな生き人形が見れます。小屋には廊下があり歩きながら奇妙なキャラクターが織りなす諸国廻りができます。時にはエロチックな人形、残酷な人形もあります。そして小屋を出ると「リアルだったね」「びっくりした」アハハ!と笑いあうこんな感じだったそうです。現在であればディズニーランドのカリブの海賊に似てるなと個人的には思います。この生き人形の評判は当時日本にいた外国人にも広がり彼らが注文制作したとおぼしき生き人形がオランダやアメリカの博物館に今も残っています。

生き人形興行は江戸時代から明治時代になっても続いていきます。文明開化になると日本は西欧に対する興味が高まって行きました。ハイカラ趣味などと言います。その様な興味にビジュアルイメージとして応えたのがリアルな絵や造形物だったのです。なぜリアルかと言いますと当時の日本人にとって西洋人の作るものはリアルなものだというお思い込みがあったからです。ですからリアルな生き人形は勿論のこと有名な画家高橋由一のリアルな鮭の絵や五姓田義松のリアルな肖像画なども見世物小屋で飾られました。(詳しくは木下直之著 美術という見世物を読んでください)当時の浅草はその様なリアルな見世物小屋のテーマパークだったのです。その後高橋由一の鮭の絵は重要文化財にになりましたから当初は見世物だったそれらの絵も後に美術として認められるようになるのです。では生き人形はその後どの様になったのでしょうか?続けて見ていきたいと思います。

結論を先に言いますと生き人形は日本の美術また彫刻に何らの影響を与えることはありませんでした。東京藝術大学の前身である東京美術学校の初代の彫刻家の先生は仏師の高村光雲です。以前の投稿で紹介した彫刻家高村光太郎のお父さんでもあります。彼は仏師でしたので彫刻が何たるかは良く分かってなかったと思いますしかし持ち前の技量で上野の西郷隆盛像始め日本の近代彫刻の礎になるような作品を多数作っています。その高村光雲は生き人形師松本喜三郎と親交が有り松本喜三郎がいかにすごい名人であったか語っています。生き人形師の技量はすごかったのです、しかし他にもいた多くの生き人形職人含め彼らは官製の美術制度に取り込まれることのないまま、その技を菊人形の興行や百貨店で使うマネキンの制作に使うことになっていきます。昭和一桁生まれの私の父は生き人形マネキンを見たことがないと言っていたので昭和の初めには既に時代遅れになっていたと思います、(菊人形は今でも残っています)生き人形はこうして時代の流れの中で忘れ去られていったのです。この様な時代の流れの中で唯一生き人形の持つ芸術性を信じていたのが本投稿ではお馴染みの平田郷陽だったのです。彼は見世物として生き人形が持っていたエロスやグロテスクを作品の中からすっぱりと取り去りました。大きさも家の中で飾れるよう小さくしました。モチーフも日本画の中から抜け出したような美人やあどけない子供たちを作ったのです。平田郷陽の初期作品は当時の人形の常識を覆す新しいものであったと思います。定型化された市松人形ですら彼の手にかかると別次元の作品になってしまうのですから彼の存在無くしてその後の創作人形の歴史はなかったでしょう。その後彼は人形芸術運動を通じて人形を社会が認める芸術に名実共に昇華させたのでした。

その平田郷陽の作品も掲載されている「今日の人形 鑑賞と技法」の中で野口晴郎は当時の生き人形について触れています、彼の父親は生き人形師安本亀八と親交があった為それらの事情を良く知っていたのです。彼は生き人形の技術については認めつつもそれは芸術というより見世物として庶民を楽しませる以上のものではなかったと書いています。しかしこの野口晴郎の洞察は現在意外と知られていないことだと思います。何故ならアートなどの言説では現在、見世物として作られた生き人形を素晴らしい芸術作品というような言説が見受けられるからです。確かに現在の我々から見て生き人形の持つエキゾチシズムは魅力的なものではあります、しかしそれは見世物として洗練されてきたゆえの魅力であることは忘れてはなりません。決してアートと交わる類のものではないのです。勿論現在の基準で古の名人芸をほめたたえるのは勝手です、ではその人達はカリブの海賊の中にある人形もいつかアートになるとでもいうのでしょうか?人形にもアートと同じ様な歴史の文脈というものがあります、それを無視してしまえば平田郷陽が生き人形に向けた愛憎半ばした視線は意味のないものになってしまいます。それなくして彼の人形芸術は完成しなかったわけですからここは重要な部分だと思います。人形芸術運動に参加した人たちは人形を芸術として昇華させる為に深い洞察を持っていたと思います、それを現代の我々が考察してこそものの本質が見えるというものです。生き人形の外見にただビックリしているだけでは幕末の庶民の感性から一歩も踏み出していないということになってしまうのではないでしょうか。

私が初めて山本福松の生き人形を見てから30年以上の時間が経ちました。今では人体をスキャンして3Dプリンターで出力すれば簡単にリアルな立体造形物が作れます。またシリコンやレジンを使えば生き人形の胡粉の肌よりよりリアルな人間の肌を再現できるのです。アカデミー賞を取った辻一弘さんは現代的な技術を使って現代の生き人形と言えるような人体像を現代美術として発表しています。しかし彼の作品のリアリズムはなぜ人間はリアルを求めるかという批評性がベースにあります。現在我々は既に仮想のリアリズムの中にどっぷりと使っています、辻一弘さんの作品はその様な我々の自画像のようなものだと思います。そんな辻さんの作品を見た後では生き人形のリアルさはどこか長閑で懐かしささえ感じます。そのようにしてリアル(現実感)とは日々更新され懐かしいものになっていく宿命があります。だからこそ人形作家は移ろいゆくリアルを常に追いかけ続けなければならないのだと思います。

                             月光社 つじとしゆき


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