創作人形批評とは

 前回の投稿で批評について言及したので批評について書いてみたいと思います。

現在批評という言葉は様々なジャンルで使われる言葉だと思います。映画、演劇、美術、漫画、JPOPと何でもありです。日本ではそれらをジャンルの外側から宣伝をする人達というイメージが強いですが海外の美術評論家は新しい価値観を創造する人たちとして社会的にも高いステータスを与えられていたりします。その為に大学で美術史を学んで教授職についていたり美術館の学芸員をしてキャリアを積むこともあるようです。ステ-タスに相応しい専門性を要求されているわけですね。そしてその専門性を背景に良い作品、悪い作品をより分けるのが批評家の仕事ということになります。日本だと作品にケチをつける意地悪な人達というイメージのある批評家ですが実際にはには光の当たっていない作品に新たな価値を見つけ出す人達というのが正確なところだと思います。例えば有名な音楽家であるモーツアルトは死後200年ほど経ってドイツの音楽評論家パウルベッカーによって素晴らしい音楽家として認められました。現在の感覚では信じられないことですが彼の批評が無ければモーツアルトは今でも無名のままだったのです。アートの世界ではロジャーフライという美術評論家が現在に至る美術の重要な人物であるピカソやマチス、セザンヌを発見しました。主にポスト印象派と呼ばれる画家たちに注目した彼はセザンヌやゴッホ、ゴーガンなどを自らの本国イギリスに紹介しました。当初それらの絵はまるで価値の認められていないヘタな絵とみなされていましたが彼の評論を通じて素晴らしい作品とみなされるようになりました。同時代の作家バージニアウルフは彼は一人で人々の価値観を変えてしまったと書き残しているほどなのです。日本でも美術評論家辻惟雄が書いた「奇想の系譜」という本では今まで取り上げられてこなかった絵師たちを取り上げ日本美術の見方に新しい角度を提供しました。この本の中では現在有名な伊藤若冲という絵師が取り上げられていますがこの本なしに今の名声はなかったと思います。この様に批評は新しい価値観を提起する事によって今まで知られていなかった作品や作者にスポットライトを当てて人々の価値観にまで影響を及ぼすことの出来る強力なメディアなのです。では人形では批評というものはどの様に作用していたのでしょうか。考察してみたいと思います。

明治以降の人形に対する日本国民の興味は生き人形による見世物興業、郷土玩具収集の趣味が発端になります。それらについて書かれている文は多くあるのですがそれは批評を通じて新しい価値観を発見するというより物珍しい風俗に対するルポルタージュというという側面の強いものであったと思います。人形においての批評が本格化するのは以前紹介した人形芸術運動以降の大正期なのではないかと思います、それは以前紹介した森口多里がどんたく社の人形への批評を行った時期ですが何分まとまった資料が手元にないので少し時代をずらしまして敗戦後人形芸術運動に参加した人たちを中心に出版された「今日の人形 鑑賞と技法」という本をテキストに人形の批評がどの様になされていたか見ていきたいと思います。

「今日の人形 鑑賞と技法」は1959年近代人形美術会が出した本です。近代人形美術会は戦前人形芸術運動を主導した日本画家の西澤笛畝 人形研究家山田徳兵衛始め仲間の人形作家を中心に結成された団体です。会の目的は人形芸術運動と等しいですが手芸をルーツとした作家たちも会に招いた為装い新たに起ちあがったという感じだと思います。本の構成は様々な作品の写真を掲載しての作品批評、人形の歴史から考察する現代人形の価値についての論稿、技法の紹介、戦前の創作人形にまつわるエッセイとなります。どの内容も興味深いので未見の方は是非ご覧になってください。作品批評のページでは30人程の作品の批評を見ることができます。作品は人間国宝から手芸の作家。素材も木彫りから紙塑、縫いぐるみからプラスチックまでバラエティーに富んでいます。この感じはロシアのドールショーに参加したときのような印象とよく似ていると感じます。様々な作品が持つカオスが全体の活気に繋がり同時に一部作品のレベルの高さに繋がるそんなイメージです。それらの作品に寄せられた講評は全体的に抑制的でフォルムに対する批判が多い印象があります。この批評のページでは作品の紹介がメインの目的らしくあまり鋭い批評は目につきません、しかしこの本全体には一貫した批判精神が有り主に人形についての論稿の部分にそれがよく現れているのでご紹介したいと思います。

それは野口晴郎という人形作家が書いた「近代人形のおいたち」という文です。簡単にざっと紹介しますと、先ず人形美のルーツとして埴輪を取り上げその造形美の背後にある母系的な社会構造が人形を平和や安らぎの表現として成立した背景を説明します。続けてその安らぎの表現が時代とともに視覚的な工芸美術として発展していく様子を様々な人形の実例を通して説明します。そして近代に至り彼らが過ごした明治期における生き人形について批判的に論じたのち手芸の勃興が創作人形に果たした役割を高く評価するのです。そしてその様な歴史的背景を基に人形を芸術として捉える大正期の工芸作家を中心とした人形芸術運動が手芸をバックグラウンドにしたプロ作家やアマチュア作家をを巻き込んで昭和初期に日本人形研究会という集まりになったことを説明するのです。一度まとめますと彼らはまず人形の近代性の原点を批評的に考察しながら理想的な近代人形とは何かという一つのモデルを仮定しました。そしてそれを実践する為に工芸と手芸の人形作家を団体を作ってまとめ上げ理想的な近代人形の創造を目指したのでした。話を戻して文の解説を続けます。

そしてそれらの活動が昭和11年の帝展(国が主催する展覧会)に多くの人形作家が入選したことで結実し、人形が単なる愛玩物を超えて彫刻や絵画と並ぶ表現と並んだことを誇るとともに将来的に人形が芸術として向上する為にどのような構えをとるべきか考察しています。一つは海外の人形に対する考え、二つ目は人形はアートのようになれるのかという考察をピカソのゲルニカ(スペインの軍隊が市民を無差別に虐殺したことをテーマにした絵です)を例に書いています。最後にまとめとして現代の創作人形はこうあるべきという理想を書いて文が終わります、その理想とは、現代という殺伐とした時代において人に癒しを与えられるのは素朴な表現として古代から繋がってきた人形だけである。というものです。では彼らの理想はどのような結末を迎えたのでしょうか?

この投稿を読んでいただいている皆さんには野口晴郎の書いた内容が私の投稿の内容に重なっている事に気づかれた方もいると思います。手芸と工芸の関係、海外やアートとの関係など実は同じ様な問題が変わらずに現在もあるということです。人形を人間観察の表現として昇華させようという主張も現代の私の主張と大きく変わるものではありません。野口晴郎は人形を芸術の如くアップデートする為にピカソのゲルニカを例に挙げ戦争や死に向き合うような暗さを人形は表現するべきではないかと本文で訴えたりもしています。以前の投稿で私が平田郷陽の作品に行ったような批判精神は60年前に既に存在していたということなのです。「今日の人形 鑑賞と技法」が発刊される10数年前、ビキニ環礁では人類を全て滅亡させることができる兵器「水爆」の実験が行われました。シュルレアリスムの巨匠サルバドールダリは程なくそれをテーマにした作品を描きました。水爆をテーマにした娯楽作品「ゴジラ」が封切られたのは実験の約10年後、「今日の人形」はその後に発刊された本です。しかしこの本に掲載された作品にはその様な重大事件に対する社会批判はありません。さらに言えば戦前人形芸術運動の時代、日本は戦争によって沢山の国内外の市民、兵士の死とともにあったのです。残念ながら人形芸術運動に参加した人形作家の作品に戦前戦後ともそのような現実と向き合った人形作品はありません。人形芸術運動に参加した様々な人達の持つ知見例えば、人形の歴史、技法、美意識において彼らは優れた批評眼を持っていたと思います。しかし彼らは人間という生物、それが作り出した社会というものに対して常に楽観的であったと思います。もしくは楽観的を装っていたと思います。しかし人間は完ぺきではありません。間違いも起こすし時に驚くほど残酷な生き物でもあります、その様な人間の持つ暗部を人形表現として昇華しきれなかった所にあれ程盛り上がった人形芸術運動が挫折してしまった大きな原因があるように私は思います。

創作人形の批評はその後作品批評というより文筆家や社会学者による人形を介した文明批評のようなものが主流になっていったように思います、澁澤龍彦の人形についての文章も概ねそういう性質のものです。ですから自ずと作家自身が作品について語らざるを得なくなっていきました。以前の投稿した四谷シモンさんの「ナルシシズム」という考えもそのようなものだと思います。ナルシシズムが鏡に映った自分をテーマにしたしたものだとすればそこに映った自分は必ずしも美しい姿とは限りません。シモンさんは晩年年老いた自分の姿を人形として表現しました。これは理想化されないありのままの人間を表現したものとして野口晴郎の批評に応えていると思います。しかしより人間の暗部に目を向けた作家として人形作家天野可淡さんはさらに重要です。彼女が書いた「解かれたガラスのリボン」という詩において鏡に映った自分が鏡の中の人形と見分けがつかなくなるとゆう幻想が書かれていますがこれも「ナルシシズム」という人形理論に照らせば彼女の人形作品が彼女の似姿であると解釈できるということです。そんな彼女の作った人形は美しいというより言語化できない作者の悩みや心の中にある醜さが表現されているように私は感じます。正直見ていてつらくなるような暗さが作品にあるのです。ここにはピカソが戦争に抱いた怒りや人間の愚かさはありません。只々自分が許せないそんな感じの暗さです。ここには人間の暗部をどう表現するべきかという作者の葛藤があります。そしてそれは人形芸術運動を主導した全ての人達が到達することができなかった場所であったと私は思います。創作人形は「今日の人形」出版から数十年たった後野口晴郎の理想を超克したのです。しかし残念なことに彼女の作品は創作人形の歴史の文脈において何かを成し遂げたのではなく不慮の事故によって早世した天才作家というイメージに覆い隠されてしまったというのが現実だったと思います。これは創作人形の世界にまともな批評が存在しなかったゆえの不幸ではなかったかと私は思います。

創作人形の批評はこれから業界全体で考えた方が良い問題ではないかと個人的には考えます。私も作家の端くれですから批評と称してどっかの誰かさんに好き勝手言われるのは気持のいいものではありません。しかし巨匠の名人芸や実績におもねってまともに批評を行わなければ人形芸術運動の二の舞になりますし、そもそも批評活動が存在しなかったら商業ベースの言説が作品価値を決定するステージになってしまいます。私も時間を見つけては人形作品を見る機会を作っていますが良い作品を作っている作家さんはまだまだたくさんいます。それらの作品が商業的に成功しているのであれば批評活動など不要であるという考えもあるでしょう。しかし冒頭紹介したモーツアルトもセザンヌも生前商業的に成功した作家ではありませんでした。むしろ当時商業的に成功した作家たちは今では無名の存在なのです。これは作品の価値というものは今その時だけに在るものではないということを証明しています。勿論それを発見する批評そのものを誰がやるのかという問題はあるのかもしれません。しかし新しい価値観に基づく作品を発見する事は現状の人形のセールスをより広げるということですから誰の損にもなりません。この様に批評は作品を学問的に扱うと同時に商業的な価値を高める機能を持っています。ですから自分の言説に責任さえ持てれば誰でも批評家になって良いのです。そんな批評空間から新しい作品が生まれてくるというのも「これからの人形」の進むべき道なのかも知れません。

                             月光社 つじとしゆき





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