手作りと人形

 手芸にせよ工芸にせよそれは人の手を介して物を作り上げる行為に変わりありません。古来より人間は全ての物を自らの手で作り上げてきたわけですから手作りするいうと行為が特別な意味を持ったのは何かのきっかけがあったということです。そのきっかけを探ったら何が見えてくるのか考察してみたいと思います。

手芸が国の政策で日本の女子に広がっていったことは前回の投稿で紹介しましたが日本の女性が手芸を習うきっかけになったのは当時イギリスの女王であったヴィクトリアという人の存在があります。ヴィクトリア女王は名君としてイギリスを統治しただけでなく沢山の子供を産み育て良妻賢母の誉れの高い方でした。今でいえば非の打ち所の無いスーパーセレブといったところでしょうか。またヴィクトリア女王は手芸の腕前も素晴らしかったのです。日本の近代化はヨーロッパの文化を真似するところから始まるのですが近代的な女性のお手本はヴィクトリア女王となるわけです。ではなんでヴィクトリア女王は手芸が上手なのかと言いますとそれがその当時の女性に割り与えられた役割だったからです。前回専業主婦について書きましたが日本で明治時代に女性に起こった変化はイギリスでは一足先に起こっていたわけです。では手芸で作られる刺繡やレース,造花が何故生活を豊かにするということになるかというと当時は都市生活者が増え自然から切り離された生活をせざるを得ない人が増えてきたからなのです。人工的な自然を造花や刺繡やレースの植物文様などに求めたわけですね。当時のイギリスは産業革命という時代で工場で物をたくさん作ってそれを輸出して国を運営していました。世の中には使いきれないほどの商品が溢れるようになり輸出で儲かった富は中産階級や上流階級を潤しました。しかし今まで農村でのんびりと手作りで物を作って生活していた職人たちは一転工場のある公害だらけの都会でサラリーマンにならざるを得なくなったのです。こんな矛盾に意義を申し立てたのがジョンラスキンという思想家です。

ラスキンは産業革命で豊かになったイギリスに批判的でした。工場ができて物は安く大量に作れるようになったけどそこで作られるものは画一的で美しくない。そんなものに囲まれて生きて人間は幸せになれるのか?手作りの品に囲まれた中世の昔の方がよっぽど幸せだったんじゃ?と考えたのです。そんな中世の工房の世界に戻って豊かな生活を取り戻そうとラスキンの考えに共鳴し実践したのがウィリアムモリスという人です。しかし昔のように手作りで全ての生活用品を作り上げようにもそれを作ってくれる職人さんはすでにいません。そこでモリスは手芸の上手な身の回りの女性たちに声をかけて自分の理想の実現を手伝ってもらったのです。そこでモリスは東洋的な植物文様を自らデザインし会社まで作ってそれらを広めました。このモリスの活動はフランスにも伝わりアールヌーボーという工芸に影響を与えました。アールヌーボーも植物や虫のデザインが特徴的ですがこの人工的に自然を作って都会生活を豊かにしようというのはモリスから引き継がれたアイデアということですね。そしてこの様な手作りを通じた文明批判は日本にも伝わってきます。それを実践したのが柳宗悦という思想家です。

柳宗悦が活躍した明治期は産業革命時代のイギリスのように日本が工業化し大量生産の物に溢れる時代に突入しつつありました。ラスキンが憂慮したような近代の矛盾が日本にも顕在化してきたのです。そこで柳も工業を否定して手作りの生活を取り戻そうと活動を始めます。その活動は「民芸運動」と呼ばれるものです。柳は海外の手作り運動に学びながらもモリスやアールヌーボーの持っている人工的な自然を作るということには反対でした。日本には伝統的に花鳥風月をモチーフにした工芸品の体系がありましたがそれは貴族的でわざとらしいものと捉えていたからでした。柳は名も無き工人や農民たちの作る素朴な物こそ美しいと考えたのです。そしてそれが何故美しいのか理論的に書物に表し、自らの眼にかなった「民芸品」の収集も行いました。それらは現在日本民藝館で見ることができます。柳の著作を読まなくても柳宗悦の美意識や思想が理解できる素晴らしいコレクションです。そのコレクションを通底する美意識を柳は「下手なもの」と名付けています。「下手なもの」とは端的に言うと無垢なもの、素朴なもの、てらいの無いものという意味が本意だと思います。しかしコレクションの中にある大津絵というのはホントにヘタな絵です。今風にいえばヘタウマとかゆる絵とか「画伯」とかゆうスタイルです、このような「下手なもの」というのは手作りが到達した一つの美意識だと私は理解しています。画家のピカソは死ぬまで無垢に素朴に表現することを求めたアーチストですがそのピカソが高く評価したのが当時下手くそと新聞で酷評されていた画家のルソーであり先程紹介した大津絵だったのですね。現代美術を切り開いたピカソがこれらの「下手なもの」に注目したことは現代につながる美意識に大きな影響を与えました。人形に話を戻してまとめたいと思います。

日本では明治期より郷土玩具を収集するブームがありました。郷土玩具とは主に農村などで農閑期に作られる素朴な手作りのおもちゃのことです。当時の郷土玩具の収集家清水晴風は「最近の美術は高尚すぎて分からなくなったので素朴な郷土玩具をあつめるようになった」などと書いています。郷土玩具の収集は単なる趣味を超えて工業製品の持つ味気無さを批判する材料でもあったわけです。多分国が主導する急速な工業化や上から目線の美術概念の押し付けにみんなうんざりしていたのだと思います。なので人形を作る当時の若者たちがそのような思想に共感したのは想像出来ることです。ピカソと竹久夢二はほぼ同じ年ですが彼らが下手や素朴に注目したのはそこに近代の持つ矛盾をはらんだ美術概念を打ち壊すエネルギーを感じたからだと思います。そんな夢二達の作った人形は平田郷陽の作った作品から比べれば確かに「下手なもの」です。しかし「下手なもの」は前述したように近代がもたらした様々な矛盾への批判を内包した表現であるということです。ここには手作りで作らなければならない必然性があるということです。そしてそれは美術という明治以降の近代システムが押し付けていた美術に対する認識を解放するものでもあったのです。この様に手作りはその行為を通じて現代的な美を表現するフォーマットになったのだと思います。

人形を教室で教えているとどうやったらうまくなりますか?と聞かれることがあります、また人形のコンテストで作品の出来不出来があたかも作品の価値そのものであるかのようなコメントに接する事があります。本投稿を読んでいただいた方はもうお分かりのことと思いますが「下手なもの」であることは人形表現において恥ずべきことではありません。むしろ誇るべきことです。上手を目指すのであれば工芸の世界があなたを待っています何年でも根気よく修行すれば必ず上手になるでしょう。どうしたら上手になれるのかという欲望はそもそも上手になって人を出し抜きたい、認められたいという歪んだ欲望に過ぎません。手作りが到達した美意識である「下手なものは」前述したように無垢である、素朴であることです。なのでどうやったら人形が上達するか質問された時私の答えは、自分を愛すること、そしてその自分に正直であることと答えています。以前の投稿で私が球体関節人形展を機会に作家を目指したエピソードを記憶しているかと思いますが作家を目指そうとした私が始めにしたのがその二つの答えを実践することでした。でもこれは考え方を変えるという単純な方法で解決できるものではありません。素材を愛して正直に制作するということ。手作りという実践を通して実現できることなのです。簡単に書きましたがそこに到達するまで私は沢山の時間を費やしてしまいました。なのでもしこれを読んでいる人形作家を目指している方がいたら人目を気にせず伸び伸びと制作していただきたいと思います。下手でもイイじゃないですか!

                            月光社 つじとしゆき

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