手芸と人形
前回リプロダクションというホビー(趣味)を紹介しました。リプロダクションはアンティークドールのモールド(石膏型)を使い人形のビスクヘッド(磁器製の人形パーツ)を作成して市販のボディーに取り付けて人形を完成させ、服を制作してその出来を先生に判定してもらうという競技性もあるホビーです。目標は国際大会で1位になることで生徒さんは職人さながら制作に励む事になります。難しい所はビスクヘッドを綺麗に加工しチャイナペインティングという技法で化粧を施す事ですが作業の大半は衣装づくりの工程です。衣装製作は手芸の能力がものをいうので手芸が学校で必修科目であった時代の中年女性がホビーの中心を構成していました。この事はファッションドールが創作人形に登場して以降、創作人形の世界でも顕著になってきた現象でした。人形制作における衣装制作の比重が高まったと言うわけです。私が人形業界に入った頃そこに携わる人の大半は女性でありましたし現在でも人形作家の大半は9対1で女性です。それは手芸と女性の関わりが原因と思いますので歴史をさかのぼって考察してみたいと思います。
明治の文明開化が起こり日本の近代化と共に国策として美術という概念が入って来たという事は以前の投稿で紹介したのでご記憶の方もいると思います。当時美術は美術教育という形で学校で教えるものと規定されました。学校というのも明治になって政府が作ったシステムです。これで師匠に弟子入りして技術を身に着けるという慣習は古いものになったわけです。そして現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校ができ美術教育が始まります。しかしここには女性は入学する事ができなかったのです。国策として女性が美術に関われないとは現代では考えられないことですがそれだけ当時の女性の社会的地位は低かったのです。その代わりに国家が女性に割り与えられたのが手芸だったのです。その手芸とは当時裁縫のことを指し小学校高学年では必修科目でした。さらに実業系の学校が設立されると手芸には編み物、組紐、刺繡、造花などが含まれるようになりました。しかしこれらの技術は女性が経済的な自立の為に使うものというよりも結婚した後に旦那様や子供に豊かな生活を与えることを目的としたものでした。社会の分業化が進むとともに都市部にはサラリーマンという職種が生まれました。同時に専業主婦という社会的なカテゴリーも生まれましたので生活を豊かにする為に専業主婦にはそのような社会的な役割を与えられたのです。このように手芸、女性、専業主婦という繋がりは元々国の政策が原点だったというわけですね。大正時代になりますと専業主婦になる女性も増え同時に手芸をする人口も増えました。既に私立で女性に美術を教える学校もでき女性たちは文化の担い手に変貌していきました。手芸の世界でも藤井達吉という独学の工芸家(手芸家)が現れました。彼が先頭に立って市井の女性たちの優れた手芸作品をデパートなどで紹介するようになると工芸のプロでも唸るような素晴らしいが次々と作品が作られるようになりました。しかし以前紹介したように工芸ですら美術の低カーストだった時代ですから手芸が如何によくできていようと美術のカテゴリーに認められるなんて考えられないことでした。なら権威なんかクソくらえ国に認めてもらわんで結構です!というスタンスの人達が現れます。その中のひとりがが山本鼎という人です。
山本鼎という人は元々は木版画の作家です。勉強の為のヨーロッパに行った折帰りのロシアでペザントアート(農民芸術)というものに出会います。それは専門的な教育を受けてない農民たちが木彫りをはじめとした手芸を素晴らしい表現として昇華させたものです。日本と違うところは貴族などの上流階級の人がそれらの価値を認め作品を収集するなどして支援したことです。そんな伝統のあるロシアの手芸が今でも素晴らしいのは当然のことなのです。現在のロシア創作人形も手芸をベースにした表現ですが高いクオリティの陰にはこんな歴史があったのですね。山本鼎はそのペザントアートを日本に持ち込みたいと考え「農民美術運動」というのを始めます。ロシアのペザントアートには厳しい冬の間、農閑期の現金収入を稼ぐという実利的側面があったので日本でも仕事の無いの農村の冬の仕事として期待したわけです。そして「木っ端人形」という創作人形を考案し農民たちに広めました。この人形は手芸として作られた創作人形(伝統人形ではない人形)として初期の人形となったのです。この「木っ端人形」は今では伝統的な郷土玩具として長野県などで見ることができます。
昭和になると山本鼎のようにあえて在野で人形を表現として昇華させようとする人達が続々と現れるようになります、それは有名な画家、詩人である竹久夢二が作った人形同人であるどんたく社、戦後イラストレーターとして活躍する中原淳一や人形作家川﨑プッペが参加したイルフトイスという人形創作グループなどを中心として行われました。彼らは素材としてしんこ(小麦粘土)新聞紙、布などありふれた材料を使用していかにもアマチュア全とした人形を制作していました。しかし伝統的な価値観にとらわれないそれらの人形は表現としては素晴らしいものであったと伝わっています。当時の美術評論家森口多里が平田郷陽たち人形芸術運動の作家達の目指した帝展の出品作品より竹久夢二の人形の方が心を揺さぶると書き残しているほどなのです。夢二の持つ抒情性は絵や詩だけでなく人形でも一貫して当時の人に刺さったわけですね。このように以前紹介した平田郷陽らが参加した工芸としての人形を志向する「人形芸術運動」とは別に、手芸としてのアプローチで人形の表現を制作するもう一つの流れが昭和の初めにあった事が分かったと思います。先述した中原淳一の人形から影響を受けたことを辻村ジュサブローは書き残していますし、四谷シモンは若き日に川﨑プッペを訪ね教えを乞うています。この様に戦後私たちが目にしてきた創作人形や「球体関節人形」のルーツには手芸の影響が色濃くあったわけです。
この業界にいると性別に関わらず「主婦の作品はダメ」だとか「これじゃまるで手芸じゃないか」とか明治期の男性たちのような事を言う人に出会うことがあります、しかし大正時代には前述した藤井達吉のように良いものは良いと手芸の価値を認めた人も既にいた訳ですからそのようなことを言う人は作品よりもその人の社会的な属性を重視する傾向があるのだと思います。悲しいことですね。また専業でないと良い創作は出来ないと考える人もいるでしょうがそもそも手芸は空いた時間に作るものです。ペザントアートはその空いた時間で花開いた表現です。つまりアマチュアであるが故に、或いは副業であるがゆえに自由に創作できるのです。そこには以前投稿した職人か作家か身もだえして悩む前提が存在しません。何故なら手芸には作家の要件である自由が既にそこにある訳ですから。この手芸の持つ根本的な自由は戦後の創作人形を発展させるきっかけになりました。この様に手芸が現在に至る創作人形を支える基礎になった事をご理解いただけたでしょうか?
リプロダクションというホビーは創作ビスクドールという形で創作人形の発展に大きな影響を与えました。近年では羊毛フェルトという手芸が同じ様に創作人形に新しい表現の可能性を示しています。手芸の持つ可能性はこの先も創作人形に新しい表現を切り開いていくことと思います。「おかんアート」などと侮らず手芸に関心を寄せていただけたら幸いです。
月光社 つじとしゆき
本文は池田忍著「手仕事の帝国日本」田中圭子「日本における球体関節人形の系譜」に根拠をおきます。興味のある方は是非原文をご覧ください。
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