投稿

第一期終了ご挨拶

 取り敢えずここまででブログの第一期を終わります。当初より一か月限定で書ける所まで書くつもりで始めたので少し押してしまいましたが思いついたことは一通り書けたと思っています。ブログ全体の目的としては人形が如何なる要件をもって他の立体造形物と分別できるのかという事を文化的、歴史的傍証をひいて説明できるかというところにありました。人形は様々な側面から検証可能なものなので心理学やら考古学やら美術やら雑食的に調べる必要がありちょっと雑然とした内容になってしまいましたが一人形作家としてはこの辺が妥当なところだと個人的には思っています。本文の中にはブログを簡単な読み物にする為に引用文献をかなり大胆に省略、改変している箇所が多々あるので出来れば原文に当たって確認していただければと思います。 四谷シモンさんが青木画廊で初個展をやってから50余年の歳月が過ぎ創作人形の世界も大きく変わったというのは確かな事実だと思います。その歳月の中には多くの人形作家たちのトライアルが有り現代創作人形のアイデンティティの土台になりました。しかし個々の作品の出来不出来を見るだけではその実像を掴み損ねてしまうのではないかという危機感が私にはありました。そういう意味で少し引いた場所から人形全体を一度見渡してみても良いのではないかと考えこの様な構成のブログとなりました。その様な大まかな人形の歴史を出来るだけ多くの人にご紹介したく文章についてもなるべく難解にならないように心掛けたつもりですがいかがだったでしょうか? 読みずらい箇所も多々あったと思いますがお付き合いいただきありがとうございました。最高の批評は作品を創作する事という言葉もあるようなのでまた作品制作に戻りたいとます。改めてまとまった時間と書くべき内容が揃ったら第二期のブログもあるかもしれません。その時はよろしくお願いします。ではさようなら。                            月光社 つじとしゆき

玩具としての創作人形

 前回ハンスベルメールと遊びについて書いたので創作人形と玩具について書いてみたいと思います。玩具にについて考えるためには先ず遊びとは何なのかという事について書かなければならないので以下説明したいと思います。 遊びの研究というとホイジンガという人が一番有名です。遊びというのは社会において暇つぶしのようなものですからホイジンガ以前にマジメに研究する人はいなかったのです。西洋文明の基礎となった古代ギリシャの哲学者たちでさえも遊びを心身をリフレッシュするためのものぐらいにとらえていたので無理もないことでした。そんなホイジンガがなぜ遊び研究の第一人者になったかといいますと人間の文化とはそもそもどうして生まれたのか?と設問を立てたうえで研究、考察しすべての文化は「遊び」から生まれたという結論に達したところでした。文化というものは人間と動物を分別する指標になるわけですから「遊び」は人間に与えられた特別な生物学的な特徴になるわけです。ホイジンガはそんな人間の特徴をホモルーデンス(遊ぶ人)という言葉で表しました。そんなホイジンガは様々な遊びの要素を分類して遊びの特徴を定義づけしました。1 遊びは自発的に行われる。(誰かに命令されてやるものではない)2 遊びは日常の外側で行われる(子供部屋、公園、スポーツスタジアムなど)3 何らかのルールがあるそしてそれに従う。4 遊びとは緊張と興奮を喚起するものである。そしてそれは勝敗などの結末をともなって解放される。簡単に書くとこんな感じです。何でこんなに簡単かと言いますと複雑に書くと全ての文化活動の原点が「遊び」と言えなくなってしまうからなのです。後に遊びの研究をしたカイヨワやフィンクなんかはそんな隙間を上手に埋めるようにしてホイジンガの研究をブラッシュアップしていきました。ですので本稿ではその人たちの考えを総称して「遊びの理論」と呼ぶことにします。では具体的に幾つかの例を挙げて遊びと文化の関係を見てみましょう。条件は先述した番号と対応します。例1。条件1子供たちがサッカーをします。彼らは誰かに命令されたわけではありません。条件2彼らはサッカー場でサッカーをします。条件3彼らは足のみでボールを操りボールをゴールに入れようとします。ゴールに多くボールを入れたチームが勝ちます。条件4おたがいゴールにボールを入れあい白熱したゲームになります。時間がきて

「球体関節人形」と写真

 前回写真について少し触れたので人形と写真について書いてみたいと思います。しかし写真について技術的なことは良く分からないので自分の好きな人形写真集について好き勝手書いてみたいと思います。取り上げるのは四谷シモンさんの「人形愛」、ハンスベルメール写真集、吉田良一(吉田良)さん「アナトミックドール」3冊です。人形の写真から何が読み取れるのか考察してみたいと思います。 先ずは四谷シモンさんの「人形愛」という写真集から書きたいと思います。撮影は超有名写真家篠山紀信、監修は以前の投稿で紹介した澁澤龍彦となっています。本も大判で本当に豪華な写真集です。基本的にはシモンさんの初期から中期の「球体関節人形」作品が中心に収録されています。初期のシュルレアリスム風の作風がロマンチックな作風に変化していく感じは余分なアイデアがそぎ落とされて作者のイメージがむき出しになっていく感じというか、服を一枚づつ脱いで自然状態になっていく人間というかそんな観想を私に抱かせます。篠山紀信という写真家は実際のモデルを使うときも上手にヌードにもっていったそうなので人形相手にもそのテクニックが活かされたのかと考えます。w この写真集は人形の正面顔のアップが印象的です、そして撮影されたその人形は写真集を見る私を見つめ返してきます。これはシモンさんが人形の目線が合うようにドールアイ(眼のパーツ)を調整していることを表しています。敢えて視線が合わないようにする作家さんもいるのでこれは意図的なのです。そしてその人形と目の合う場所に立った時、写真集ではそのページを見たとき、人形は鏡に映った自分になり人形と私が重なり合ったダブルイメージとなって現れます。また全身が写った中期の人形は片足を一歩前に出しているポーズが特徴的です、これは鏡に映った人形(自分)がそっと動きだすような気配を感じます。写真集は四角に切られたフレームが固定されていますから、鏡に映った自分というシモンさんの人形に対するアイデアが良く理解することができると媒体だと思います。澁澤龍彦の文章やシモンさんとの対談も面白いので人形モノの本棚には是非おいていただきたい写真集になっています。 次はハンスベルメール写真集を紹介します。この写真集はは1934年ベルメールが自身で出版した写真集「人形」に掲載されていた写真をもとに日本の出版社リブロポ-トで出版されたものです

複製技術時代の人形

 前回取り上げたデジタル技術の特徴はデジタルデータの劣化しない性質を利用して本物と偽物の区別のつかない複製品を大量に作り出せるということにあります。その様なデジタル複製の社会の中で人形はどの様な役割を持つのでしょうか?考察してみたいと思います。 今回のタイトルはベンヤミンという人が書いた「複製技術時代の芸術作品」からとっています。なぜかというと今回の投稿はこの本をテキストに書こうと思ったからです。この本は1936年(昭和11年)に発表された本です、人形芸術運動の作家たちが帝展に入選した年ですね。内容の骨子はコピーが溢れる社会が訪れた時芸術ってどうなってしまうのか?という内容です。デジタル技術でコピーが溢れる現代に重なる内容を含んでいるのでテキストとして最適だと思い選んでみました以下内容を簡単に自分の解釈も加えながら説明いたします。 文では先ずコピーに先立つオリジナルな物とは何かという定義をします、その定義とはこんなものです。芸術(絵画や彫刻)が生まれた初期の時代それは何らかの崇拝物、呪物であった。ですからそれはそもそも見られる価値を想定されてはいなかった。そしてそれは礼拝や儀式を行う場所に置かれ人々の心の拠り所として存在した。(秘仏とかこんな感じですね)この様にオリジナルな物とは人々の価値観や生活、伝統と結びつき、それを生み出す場所や風土と関連しながら崇拝を目的とする一つの物体であると定義しました。その様な物体の持つ価値を「崇拝的価値」と呼びます。古くは一つのオリジナルな物は職人の手仕事を通じてコピーされましたが、それは同様の価値観や伝統を同じくする人々によって「崇拝的価値」価値を持つものとして社会の中心で共有された為オリジナルと同じ様な価値観を持っていました。しかし時代が下るとともに崇拝の中心であった宗教や王族の権威が落ちていき大衆の社会がやってきますと社会の中心で人々をつなぎとめていた「崇拝的価値」を持った芸術作品は社会の中心から離され美術館や金持ちの家で人々に鑑賞される目的の物になっていきました。その様な「崇拝的価値」を失ってしまった芸術作品を「鑑賞的価値」を持つ芸術作品と呼びます。芸術作品(絵画や彫刻)は時代ととも崇拝対象からに純粋に見るという快楽を追求する物体へと変化していったというわけです。そして近代という時代がやってきて複製技術の発達が芸術の価値を脅か

デジタル技術と人形

前回の投稿で3Dプリンターについて 触れたのでデジタル造形技術について書いてみたいと思います。しかし私はデジタル造形技術で実製作したことはないので詳しい事は書くことができませんのであくまでも一般論として人形とデジタル造形技術について考察してみたいと思います。 私は工業高校で学んだ若者でした。当時多くの工場でプログラムを利用した機械工作は一般的なものでしたので初期のデジタル造形技術を学校で学ぶのは必須のことでした。当時は三面図という図面で品物の形状、全体各部分のサイズを正面、横、上の角度から書いた平面図を設計図として紙などで描きそれを基に手作業やプログラム(昔の特撮で出てきた紙テープで記録するあれです)で機械を使って品物を作っていました。しかし私が高校を卒業してほどなく紙で描いていた設計図が簡単にパソコンのディスプレイ上で描けるようになり、すぐにそのデータを利用して仮想空間に品物の立体データを生成できるようになりました。これまでは新しい造形物を作る時木などを使って試作品を作りそれを一度実寸してから設計図を仕上げていたのでこの様な技術の転換期に私の若者時代はありました。20代前半私は造形会社でその様な試作品を作る仕事を始めます、工場では身の回りにある工業製品の原型がまだ人の手を使って作られていました。タイヤの溝のパターンを職人さんが樹脂材料から手彫りで削り出しているのですから本当にびっくりしたのを覚えています。工業製品の原型制作とは当時この様な職人技が幅を利かせていた訳ですからデジタルモデリングは驚異的な技術だったのです。私が見た職人さんの中には図面すら描かずからくり玩具の原型を作る驚くべき職人がいましたが仮想空間のシミュレーション設計を使えば誰でもその職人同様のことを行うことも可能なのです。またその仮想空間上のシミュレーションモデルを現実の世界に出現させる出力装置であるロボット切削機や3Dプリンターの登場はデジタルモデリングの可能性を目に見える形で私たちに示しました。特に3Dプリンターは家庭でも使えるほど安価な製品として進化し家庭で手軽に工業製品レベルの品物を手にできるようになりました。では3Dプリンターとはどのような機械なのでしょうか?以下簡単に説明します。 3Dプリンターの原理は実は簡単なものです。「可塑性のある物体を硬化させながら積み重ねて造形する機械」これだけ

生き人形について考える

 前回の投稿で生き人形師安本亀八について触れたので今回は生き人形について書いてみたいと思います。 生き人形というのはその名の通りリアルに作られた等身大の人形のことです。生きている様に見えることから「生き人形」と呼ばれます。「活き人形」と書くこともありますが意味は同じです。私が生き人形というものを初めて見たのは20代前半のことだったと思います、京都で人形店を経営していた青山さんという方が東京で販売会を行った時に会場に持ち込んだ物がそれでした。それは山本福松という人が作った等身大のおかっぱ頭の少女像でびっくりするようなリアルな人形でした。多分当時人形作家を目指していた若者たちは大なり小なり昔の名人たちの作った生き人形に「球体関節人形」以降の創作人形の可能性を見出していたのではないかと思います。ではそんな生き人形とはそもそもどの様な人形だったのでしょうか?以下説明したいと思います。 生き人形の歴史は江戸時代末期の1850年頃のことと言われています。この頃には様々な人形を使った見世物が流行しておりその中から熊本出身の松本喜三郎という人形師が行った生き人形興行が大当たりします。その流行に乗っかる形で沢山の生き人形師が生まれてきます、冒頭紹介した安本亀八や山本福松はその中の一人ということになります。沢山の生き人形師が生まれた背景には生き人形の構造に原因があります。生き人形は見えるところは紙張り子に胡粉仕上げ、見えないところはただの張りぼてなので分業で作ることができたのです。表面的にはリアルでありながら意外と簡単な構造であったことから参入障壁が低かったのでしょう。勿論それらの技法で作られた生き人形は壊れやすい物ですから現在それらを見ることは難しいです。現在我々が見ることができるのは訳あって木彫りなどで作られた頑丈なものだけというわけです。では松本喜三郎が行っていた生き人形興行とはどのようなものだったのでしょうか?当時の生き人形興業の興奮を伝える絵や文が残っているのでどのようなものだったか代表的なものを簡単に説明します。 小屋には口上師がいて見世物の内容を説明します。内容は海の外にある様々な奇妙な外国人が見れますよ!という内容です。中に入ると足の長い「足長国」の人、手の長い「手長国」の人などの奇怪な外国人のリアルな生き人形が見れます。小屋には廊下があり歩きながら奇妙なキャラクターが

日本の土人形について考える

 前回の投稿で埴輪について少し触れたので今回は土人形について書いてみたいと思います。 埴輪は古墳時代に流行した土人形です。前回紹介した「今日の人形 鑑賞と技法」において日本人形の美の原点として紹介されています。埴輪以前の日本の土人形ですと有名な縄文土偶があります、今から遡ること13000年前に作られたものが発見されていますから日本の土人形の歴史はかなり古い歴史のあるものなのです。縄文土偶終わりと埴輪の始まりは700年程の時間のギャップがありますから同じ土人形と言ってもその機能、形状共に大きな違いがあります。縄文土偶は実に1万年以上に渡って作られたものですからヒトガタではありながら形も様々ですしその用途も実は良く分かっていません。しかしこの想像の余地が縄文土偶の特徴的な造形と相まって現代人に古代のロマンを喚起させる人形になっています。翻って埴輪のルーツは野見宿禰という人が作ったことが分かっています。昔は偉い人が亡くなると殉死といって周りの人たち(お手伝いさんや、奥さんなど)も一緒に死んでお墓に入らなければならない習俗が有り、それでは生きてる人が可哀想ですから人間の替わりに埴輪という人形を一緒のお墓に入れるよう習俗を改めましょうと天皇に進言したのが野見宿禰という人物です。但し考古学的には日本では殉死の習俗は一般的なものではなかったようなのでこれは一つの伝説と考えた方が良いかもしれません。余談ですが野見宿禰は日本で初めて相撲を取った人物としても有名です。その日本初の相撲の様子を生き人形師安本亀八が迫真の描写で作った生き人形が作品として残しています。埴輪を初めて作った人物が生き人形として残っているのは何かの因縁を感じますね。 埴輪は元々柱の様な形状のものがだんだんとヒトガタや動物型、身近な器物などの形状を取るようになります。兵士や踊り子、馬や猪、家や船などです。埴輪は高貴な死者の副葬品という用途で作られますがこの様な人形を「傭」と言います。中国では有名な兵馬俑、エジプトではウシャブティという「傭」が有り、どちらも埴輪と同じ様なモチーフを土人形で表現しています。このような事から古代人にとって「傭」は死後の世界を表現しているものと一般に考えられています。「傭」のモチーフは大抵現世に在るものですから死んでも現世と同じ様な世界があると当時の人達は考えていたのですね、なんか死んだ気が