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TokyoNo1Dol選評l

 2年にわたって行われたTokyoNo1Dollが終了した。東京都内開催の人形個展を審査するというルールで既存の人形公募展では評価されにくい個性や感性を持った作家を見つけ出すというのがこの公募展の趣旨であった。結果において応募者が一人という事になり外見的には失敗の声もいただいたが元来都内で開催される人形個展は年平均10程度、大半はブランディングの済んだベテラン作家なので既存の公募展の様な100人程度の応募は想定していなかった。そういう事であるから応募料をあてにした営利目的は本公募展にはそもそも無く応募者の多少をもってこの公募展の成否は測れないというのが当初よりの方針であった。勿論多くの応募があれば一定の盛り上がりもあったであろうがそれは公募展の持つ競技性という一部分を切り取ればの話であってそれをもって優勝者の価値が担保されないわけでは無い。疑問のある方は応募期間中インスタグラムを通じて多くの立体造形作品を紹介することで現在の人形シーンを俯瞰できるようにはしてきたので優勝した佐藤来夢さんの作品がその中でも充分なクオリティーがあることは確認して頂けると思う。ではそんな佐藤来夢さんの個展を審査員である私自身がどう見たか?以下選評を書きます。 佐藤来夢さんの個展「Still life with innocence」は2025年4/11~4/27までaaploitにて開催された個展です。会場には3体の球体関節人形と幾つかのオブジェが配置されていて装飾などはありません。このことから作者は作品を室内装飾としての人形というよりはアート作品として人形を捉えている事が解ります。公開された個展の動画からも確認できますが作品は全て作者のコンセプトに則って作られており、作品を通して技術、技工を見せる「工芸」や身近なものを使い余暇を利用して生活を彩る作品を作る「手芸」とは違った「アート」として人形を捉える姿勢をはっきり示しています。ですから個展には作者がアート作品としての人形を作ろうとしたとき必然的に現れる、既存の創作人形への批評性が存在します。個々の人形は「球体関節人形」(概念については当ブログ参照)が追求してきた幾つかのテーマである「身体性」「鏡の中の私」「死の表現」に則っており批評性はそれらが内包しているものに自然と向き合う構造の中にあります。個展のメイン作品である「在り処」はそ...

ハンスベルメールについて考える

 今回は本ブログでも度々取り上げたハンスベルメール作品について書いてみたいと思います。ハンスベルメールは文学者の澁澤龍彦が日本に紹介した事で若き日の四谷シモンさんに影響を与え現代に至る日本の「球体関節人形」のルーツになったと言われている作家です。ドローイングなども素晴らしいのですが有名なのは自作の人形を写真に撮影した作品です。その写真については以前の投稿で紹介したので今回は彼の作った人形そのものについて解説と考察をしたいと思っています。美術的な側面からは種村季弘や谷川渥の文などがあるのでそちらを読んでもらうとして本投稿では人形そのものについて書いてみたいと思います。テキストとなるのは彼の写真集の中にある第2の人形と呼ばれるものです。第2の人形とは臍の付いた球体を挟んで二つの下半身が接続された奇妙な人形で作者の人形へのアイデアが良く分かる作品なのでこの作品を手掛かりにハンスベルメールの考えに迫ってみたいと思います。ハンスベルメールは自身の作品について多くを語っており評伝「死、欲望、人形」という本を読むとその考えを大体理解、類推する事ができるので本ブログお馴染みの大胆解説で簡単に説明したいと思います。キーワードは鏡像と転移ですので順を追って説明したいと思います。 一つ目は鏡像です。言葉の通り鏡に映った像という事です。ハンスベルメールはヌード写真の上に縁の無い鏡を置き移動させながら人体がどの様に見えるか観察したそうです、すると人間の人体は相似形のパーツに分節されるされることが分かった訳です、試しに全身が写ったヌード写真の下半身が見えるように臍の部分に鏡を置くとどうでしょう第2の人形のように二つの下半身が接続された像が浮かんでくるはずです、第2の人形奇妙な形はこの様な遊びがもとになって作られたのです。意外と簡単な発想ですね。w。でも造形的にはしっかりとそのアイデアが反映されていて第2の人形の足は鏡に映った側の足と現実の世界の側の足が作り分けられているのです。もう一度鏡の遊びを思い出してほしいのですが鏡に映った下半身は遠くに見えるので見た目少し小さく見えるはずですね。実は第2の人形の足は片方の一そろいの足が少し小さく作られているのです。(以前の投稿で紹介した写真集の75pで確認すればよくわかります)何故ここまで鏡に映った身体というアイデアにこだわったかと言いますとベル...

人形の身体表現

 人形はヒトの形と書くように人間の身体表現を主なものとして発達してきた表現です。そこで今回は人形がどの様な身体表現をしてきたのかを幾つかの本を参考にして考察してみたいと思います。中心となるのは谷川渥著「肉体の迷宮」、岡本真貴子著「裸形と着装の人形史」です。「肉体の迷宮」という本は西洋彫刻と人形を比較することで論旨を立てているの内容なので本題に入る前に先ず西洋彫刻の歴史について簡単に説明したいと思います。 先ず参考にするのはケネスクラーク著「ザ・ヌード」という本です。この本は西洋美術全般において裸体というものがどの様に扱われてきたかについて記した本です。本の冒頭で以前の投稿で紹介した先史時代の小さな人形「古代の女神」から話は始まるのですが西洋彫刻において原点となるのはやはりギリシャ彫刻となります。古代ギリシャにおいて花開いた裸体の表現は元々東方において発展した裸体の表現を下敷きに古代ギリシャ特有の思想と結びついて独自の表現に到達しました。その古代ギリシャの思想というものを簡単に説明しますと世界を作った神様は完璧なのだからこの世界は完璧で整っていることが神様の意思に近づけるという考えです。では完璧で整っているとはどういう事かと言いますと数学的に美しいという事であると彼らは考えました。そこで理想的な人間のバランスとはどういうものか数学的に考え理想的な人体のバランスを考え出したわけです。レオナルドダヴィンチの書いた円の中で手を広げたヴィトリヴィウス的人間という人物像を見たことある方もいると思いますがあれはそういう考えを表しているのです。そんな美しい古代ギリシャ風の彫刻はその後覇権を握った古代ローマにも受け継がれて沢山の古代ギリシャ風の彫刻が作られます、しかし只の物まねにとどまらず顔だけは肖像彫刻というものを作る要求からリアルな人間の表情を作るようになっていきます。時代が下りキリスト教がローマの国教となりますとあんなに流行した彫刻のブームは終了します。なぜかと言いいますとキリスト教は肉体というものを素晴らしい物とは考えない宗教だったからです。そしてローマが滅び中世というキリスト教が政治や社会の規範となる時代となると人体の表現はどんどんアンリアルな表現になっていきました。それから数百年たち古代ローマの栄光がはるか昔になった頃イタリアでは都市開発のブームが起きます、家を建...

第一期終了ご挨拶

 取り敢えずここまででブログの第一期を終わります。当初より一か月限定で書ける所まで書くつもりで始めたので少し押してしまいましたが思いついたことは一通り書けたと思っています。ブログ全体の目的としては人形が如何なる要件をもって他の立体造形物と分別できるのかという事を文化的、歴史的傍証をひいて説明できるかというところにありました。人形は様々な側面から検証可能なものなので心理学やら考古学やら美術やら雑食的に調べる必要がありちょっと雑然とした内容になってしまいましたが一人形作家としてはこの辺が妥当なところだと個人的には思っています。本文の中にはブログを簡単な読み物にする為に引用文献をかなり大胆に省略、改変している箇所が多々あるので出来れば原文に当たって確認していただければと思います。 四谷シモンさんが青木画廊で初個展をやってから50余年の歳月が過ぎ創作人形の世界も大きく変わったというのは確かな事実だと思います。その歳月の中には多くの人形作家たちのトライアルが有り現代創作人形のアイデンティティの土台になりました。しかし個々の作品の出来不出来を見るだけではその実像を掴み損ねてしまうのではないかという危機感が私にはありました。そういう意味で少し引いた場所から人形全体を一度見渡してみても良いのではないかと考えこの様な構成のブログとなりました。その様な大まかな人形の歴史を出来るだけ多くの人にご紹介したく文章についてもなるべく難解にならないように心掛けたつもりですがいかがだったでしょうか? 読みずらい箇所も多々あったと思いますがお付き合いいただきありがとうございました。最高の批評は作品を創作する事という言葉もあるようなのでまた作品制作に戻りたいとます。改めてまとまった時間と書くべき内容が揃ったら第二期のブログもあるかもしれません。その時はよろしくお願いします。ではさようなら。                            月光社 つじとしゆき

玩具としての創作人形

 前回ハンスベルメールと遊びについて書いたので創作人形と玩具について書いてみたいと思います。玩具にについて考えるためには先ず遊びとは何なのかという事について書かなければならないので以下説明したいと思います。 遊びの研究というとホイジンガという人が一番有名です。遊びというのは社会において暇つぶしのようなものですからホイジンガ以前にマジメに研究する人はいなかったのです。西洋文明の基礎となった古代ギリシャの哲学者たちでさえも遊びを心身をリフレッシュするためのものぐらいにとらえていたので無理もないことでした。そんなホイジンガがなぜ遊び研究の第一人者になったかといいますと人間の文化とはそもそもどうして生まれたのか?と設問を立てたうえで研究、考察しすべての文化は「遊び」から生まれたという結論に達したところでした。文化というものは人間と動物を分別する指標になるわけですから「遊び」は人間に与えられた特別な生物学的な特徴になるわけです。ホイジンガはそんな人間の特徴をホモルーデンス(遊ぶ人)という言葉で表しました。そんなホイジンガは様々な遊びの要素を分類して遊びの特徴を定義づけしました。1 遊びは自発的に行われる。(誰かに命令されてやるものではない)2 遊びは日常の外側で行われる(子供部屋、公園、スポーツスタジアムなど)3 何らかのルールがあるそしてそれに従う。4 遊びとは緊張と興奮を喚起するものである。そしてそれは勝敗などの結末をともなって解放される。簡単に書くとこんな感じです。何でこんなに簡単かと言いますと複雑に書くと全ての文化活動の原点が「遊び」と言えなくなってしまうからなのです。後に遊びの研究をしたカイヨワやフィンクなんかはそんな隙間を上手に埋めるようにしてホイジンガの研究をブラッシュアップしていきました。ですので本稿ではその人たちの考えを総称して「遊びの理論」と呼ぶことにします。では具体的に幾つかの例を挙げて遊びと文化の関係を見てみましょう。条件は先述した番号と対応します。例1。条件1子供たちがサッカーをします。彼らは誰かに命令されたわけではありません。条件2彼らはサッカー場でサッカーをします。条件3彼らは足のみでボールを操りボールをゴールに入れようとします。ゴールに多くボールを入れたチームが勝ちます。条件4おたがいゴールにボールを入れあい白熱したゲームになります。時...

「球体関節人形」と写真

 前回写真について少し触れたので人形と写真について書いてみたいと思います。しかし写真について技術的なことは良く分からないので自分の好きな人形写真集について好き勝手書いてみたいと思います。取り上げるのは四谷シモンさんの「人形愛」、ハンスベルメール写真集、吉田良一(吉田良)さん「アナトミックドール」3冊です。人形の写真から何が読み取れるのか考察してみたいと思います。 先ずは四谷シモンさんの「人形愛」という写真集から書きたいと思います。撮影は超有名写真家篠山紀信、監修は以前の投稿で紹介した澁澤龍彦となっています。本も大判で本当に豪華な写真集です。基本的にはシモンさんの初期から中期の「球体関節人形」作品が中心に収録されています。初期のシュルレアリスム風の作風がロマンチックな作風に変化していく感じは余分なアイデアがそぎ落とされて作者のイメージがむき出しになっていく感じというか、服を一枚づつ脱いで自然状態になっていく人間というかそんな観想を私に抱かせます。篠山紀信という写真家は実際のモデルを使うときも上手にヌードにもっていったそうなので人形相手にもそのテクニックが活かされたのかと考えます。w この写真集は人形の正面顔のアップが印象的です、そして撮影されたその人形は写真集を見る私を見つめ返してきます。これはシモンさんが人形の目線が合うようにドールアイ(眼のパーツ)を調整していることを表しています。敢えて視線が合わないようにする作家さんもいるのでこれは意図的なのです。そしてその人形と目の合う場所に立った時、写真集ではそのページを見たとき、人形は鏡に映った自分になり人形と私が重なり合ったダブルイメージとなって現れます。また全身が写った中期の人形は片足を一歩前に出しているポーズが特徴的です、これは鏡に映った人形(自分)がそっと動きだすような気配を感じます。写真集は四角に切られたフレームが固定されていますから、鏡に映った自分というシモンさんの人形に対するアイデアが良く理解することができると媒体だと思います。澁澤龍彦の文章やシモンさんとの対談も面白いので人形モノの本棚には是非おいていただきたい写真集になっています。 次はハンスベルメール写真集を紹介します。この写真集はは1934年ベルメールが自身で出版した写真集「人形」に掲載されていた写真をもとに日本の出版社リブロポ-トで出版された...

複製技術時代の人形

 前回取り上げたデジタル技術の特徴はデジタルデータの劣化しない性質を利用して本物と偽物の区別のつかない複製品を大量に作り出せるということにあります。その様なデジタル複製の社会の中で人形はどの様な役割を持つのでしょうか?考察してみたいと思います。 今回のタイトルはベンヤミンという人が書いた「複製技術時代の芸術作品」からとっています。なぜかというと今回の投稿はこの本をテキストに書こうと思ったからです。この本は1936年(昭和11年)に発表された本です、人形芸術運動の作家たちが帝展に入選した年ですね。内容の骨子はコピーが溢れる社会が訪れた時芸術ってどうなってしまうのか?という内容です。デジタル技術でコピーが溢れる現代に重なる内容を含んでいるのでテキストとして最適だと思い選んでみました以下内容を簡単に自分の解釈も加えながら説明いたします。 文では先ずコピーに先立つオリジナルな物とは何かという定義をします、その定義とはこんなものです。芸術(絵画や彫刻)が生まれた初期の時代それは何らかの崇拝物、呪物であった。ですからそれはそもそも見られる価値を想定されてはいなかった。そしてそれは礼拝や儀式を行う場所に置かれ人々の心の拠り所として存在した。(秘仏とかこんな感じですね)この様にオリジナルな物とは人々の価値観や生活、伝統と結びつき、それを生み出す場所や風土と関連しながら崇拝を目的とする一つの物体であると定義しました。その様な物体の持つ価値を「崇拝的価値」と呼びます。古くは一つのオリジナルな物は職人の手仕事を通じてコピーされましたが、それは同様の価値観や伝統を同じくする人々によって「崇拝的価値」価値を持つものとして社会の中心で共有された為オリジナルと同じ様な価値観を持っていました。しかし時代が下るとともに崇拝の中心であった宗教や王族の権威が落ちていき大衆の社会がやってきますと社会の中心で人々をつなぎとめていた「崇拝的価値」を持った芸術作品は社会の中心から離され美術館や金持ちの家で人々に鑑賞される目的の物になっていきました。その様な「崇拝的価値」を失ってしまった芸術作品を「鑑賞的価値」を持つ芸術作品と呼びます。芸術作品(絵画や彫刻)は時代ととも崇拝対象からに純粋に見るという快楽を追求する物体へと変化していったというわけです。そして近代という時代がやってきて複製技術の発達が芸術の価...