複製技術時代の人形
前回取り上げたデジタル技術の特徴はデジタルデータの劣化しない性質を利用して本物と偽物の区別のつかない複製品を大量に作り出せるということにあります。その様なデジタル複製の社会の中で人形はどの様な役割を持つのでしょうか?考察してみたいと思います。
今回のタイトルはベンヤミンという人が書いた「複製技術時代の芸術作品」からとっています。なぜかというと今回の投稿はこの本をテキストに書こうと思ったからです。この本は1936年(昭和11年)に発表された本です、人形芸術運動の作家たちが帝展に入選した年ですね。内容の骨子はコピーが溢れる社会が訪れた時芸術ってどうなってしまうのか?という内容です。デジタル技術でコピーが溢れる現代に重なる内容を含んでいるのでテキストとして最適だと思い選んでみました以下内容を簡単に自分の解釈も加えながら説明いたします。
文では先ずコピーに先立つオリジナルな物とは何かという定義をします、その定義とはこんなものです。芸術(絵画や彫刻)が生まれた初期の時代それは何らかの崇拝物、呪物であった。ですからそれはそもそも見られる価値を想定されてはいなかった。そしてそれは礼拝や儀式を行う場所に置かれ人々の心の拠り所として存在した。(秘仏とかこんな感じですね)この様にオリジナルな物とは人々の価値観や生活、伝統と結びつき、それを生み出す場所や風土と関連しながら崇拝を目的とする一つの物体であると定義しました。その様な物体の持つ価値を「崇拝的価値」と呼びます。古くは一つのオリジナルな物は職人の手仕事を通じてコピーされましたが、それは同様の価値観や伝統を同じくする人々によって「崇拝的価値」価値を持つものとして社会の中心で共有された為オリジナルと同じ様な価値観を持っていました。しかし時代が下るとともに崇拝の中心であった宗教や王族の権威が落ちていき大衆の社会がやってきますと社会の中心で人々をつなぎとめていた「崇拝的価値」を持った芸術作品は社会の中心から離され美術館や金持ちの家で人々に鑑賞される目的の物になっていきました。その様な「崇拝的価値」を失ってしまった芸術作品を「鑑賞的価値」を持つ芸術作品と呼びます。芸術作品(絵画や彫刻)は時代ととも崇拝対象からに純粋に見るという快楽を追求する物体へと変化していったというわけです。そして近代という時代がやってきて複製技術の発達が芸術の価値を脅かす時代がやってきます。芸術はどうなっていくのでしょうか?
ベンヤミンが想定していた複製技術とは写真やレコード、印刷のことです。これらは機械的な方法で複製を作ります。現在ではより精巧なデジタル複製技術も存在します。これらの技術を使えば遠く離れたところでも、文化的に何らの共通性が無くても多数の人物が複製された芸術を手にすることができます。その複製された芸術とオリジナルの芸術とどの様な違いがあるかと言いますとベンヤミンはオリジナルには「アウラ」があるがコピーにはそれがないと書きました。「アウラ」とは何かといいますと命に近い概念だと私は解釈します。誰もが父や母を持ちどこかの風土や社会の中で自らのアイデンティティーを育てていきます。世界には80億人もの人間がその様に育ちそして一回きりの人生を生きています。同じ様にオリジナルの芸術も人間の命と同じようにそれを生み出した文化を背景に生み出され壊れてしまえば取り戻せない一回きりの存在です。翻ってコピーはそれを生み出した文化とは無関係に機械的な手順によって生み出されます。またコピーは一回性を持たない存在です、壊れても幾らでも複製して蘇ります、差し詰め命の無いゾンビみたいな存在です。現代とはこの様な複製技術の世界の中で見た目だけは美的に洗練されたゾンビのようなアートイメージの洪水の中で大衆が生きていかなければならない時代なのです。以前紹介したポップアートのアーチストたちはこの様な社会的な変化をありのままに作品にしました。アンディウォーホルがキャンベルスープをモチーフにしたのもロイリキテンスタインがアメリカンコミックをモチーフにしたのも当然のことだったわけです。もう芸術作品に「アウラ」なんか要らない!という結論に欧米のアートは達してしまったのでした。音楽の世界でもヒップホップはその様な影響を一般社会にも及ぼしました。もう作曲もしません、誰かの作った音楽を切ったり貼ったり、繰り返したり、逆回転して作品を作ります。黒人のストリートカルチャーというルーツがありながらあっという間に世界中に広がりローカライズされます。ダンスからファッション話し方までありとあらゆる民族がそのアイデアを利用できます。ある意味無国籍的なのです。このように複製技術社会の成熟の向こう側には「アウラ」という中心を失った世界でみんなが勝手に表現する現代という世界が広がっていたわけです。ではこの様な世界の中で人形はどの様な役割を持つものでしょうか、以下考察してみたいと思います。
「崇拝的価値」を持った物が次第に「鑑賞的価値」に移行し複製品の世界に移行していくというモデルは人形においても大まかにベンヤミンの主張をなぞるものです。「崇拝的価値」を持った埴輪は次第に「鑑賞的価値」を持った雛人形になっていったわけですから。しかし人形においては元々雛人形のコピーであった土人形が寺社仏閣の土産物という経路で普及するうちに小さな玩具でありながら「崇拝的価値」のようなものを持つという特殊な発展を遂げました。また土人形は型で作られた量産品ですから原始的な複製技術で大量に作られたものという意味で複製時代を先駆けているといえます。勿論ベンヤミンの主張の要点は機械技術により自動的に作られる複製品が人間と機械を媒介する役割があるというところなので違いは明白です。しかし人形の持つ類型的な無個性な造形というものはそもそも人間が他人と同じ様なものを持ちたいという無意識の表出という点で機械的複製技術に先立つ人間の欲望を表していると私は考えています。多分人形に詳しくない人には西洋アンティークドールの様々な工房の作品を見分けられないでしょうし、市松人形や「球体関節人形」もそれに詳しくなければ個々の作品の差を分別できないと思います。このようにそもそも人形というものは無個性な形に収斂していくという性質を持っているのです。このような類型化された無個性な造形というものは人形の歴史を遡ったとしても同様に確認できます、埴輪や土偶はそのよい例です。現在大量生産の時代になってもリカちゃんやドルフィーは類型化されたその造形によって私の人形でありながらみんなの人形という感覚を持ち主に与えます。それは同時に誰かと繋がっているという安心感を生みます。それは大量生産と無個性がもたらす安心感なのです。ベンヤミンは複製品が機械と人間を媒介する場を遊戯の場と呼びました。北山修が「人形遊び 複製人形論序説」で言ったように身の回りの物が全て人形になりうるのであれば現代社会において私達は人形遊びを通じて機械化された世界と通じ合っているということになるのです。
創作人形作家の私が人形の持っている無個性を礼賛するなど何事かと思われる方もいると思います。しかし私が生まれたとき既に世界は様々な複製技術の溢れる世界でした。そんな「アウラ」の喪失した時代に逆らうように私の世代は敢えて個性的に生きようともがいていたと思います。でも今考えてみればそれほど個性的に生きていたわけではなかったと思います。知らず知らず「アウラ」のない無個性は私の世代において当たり前のことになっていきました。しかしその様な複製技術の乏しかった時代人形芸術運動の作家たちは「アウラ」の存在を信じ無邪気に人形の中に「アウラ」を人工的に作ろうとしていました。彼らが帝展に入選した1936年ベンヤミンは「アウラ」は複製技術によって無くなるだろうと予想して現在その通りになりました。この様な時代の流れを見通せなかったところに人形芸術運動の作家たちの思想的な限界があったように思います。そして現在我々は加速的に進化する複製技術の世界の中で生きなければならなくなりました。でも「アウラ」無きこの世界では今も沢山のアーチストが作品を作り発表しています。そこでは確かに「鑑賞的価値」を支える外見的オリジナリティというものはどんどん希薄なものになっていっています。しかし「アウラ」の持つ性質がその一回性にあるとするならばその世界にただ一つ残っている「アウラ」とは個々の人が持つ一回性の人生だけだけということです。四谷シモンさんの言った「ナルシシズムの人形理論」は世界と個人のアイデンティの対立の場に人形を置くという意味で「アウラ」無き世界に出した一つの答えでしょうし現代創作人形を支える柱のようなものです。類型化され無個性な「球体関節人形」に「アウラ」はまだ残っているのか?現代の創作人形作家に突き付けられた課題はまだまだ未解決のままなのです。
人形の世界にいると人形作品のオリジナリティや造形やアイデアがが模倣かどうかなどの話題になることがよくあります。勿論法的に保護された作品の権利を堂々と侵害するのは問題ですがある作品を愛するあまりその作品に似たような作品を無意識に作ってしまうこともあるでしょう。どうあれ80億もの人が住むこの世界で完全オリジナルな外見的アイデアが存在すると考えるのはナンセンスだと思います。しかしその外見的アイデアがどの様に生まれたのかというコンセプトについてはその人の持つアイデンティティーに近づけば近づくほど他の人とは違う事が説明可能になるはずです。複製時代に残された唯一無二の「アウラ」とは先述したとおり「私」以外にないのですから。私は人形が持つ外見的な無個性は人形美を構成する一つの要件であるという立場です、しかし現代においては外見が無個性であればあるほどその成立に関わる説明責任が問われます。でなければそれはただの複製、模倣に過ぎないと言われかねません。創作人形においてはその「創作」という部分のアイデンティティーに関わることですから事は重大なのです。複製技術の時代だからこそ創作人形作家には時代にふさわしい態度求められているのだという事を肝に命じて活動していかなければならないということなのです。
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月光社 つじとしゆき
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