「球体関節人形」と写真
前回写真について少し触れたので人形と写真について書いてみたいと思います。しかし写真について技術的なことは良く分からないので自分の好きな人形写真集について好き勝手書いてみたいと思います。取り上げるのは四谷シモンさんの「人形愛」、ハンスベルメール写真集、吉田良一(吉田良)さん「アナトミックドール」3冊です。人形の写真から何が読み取れるのか考察してみたいと思います。
先ずは四谷シモンさんの「人形愛」という写真集から書きたいと思います。撮影は超有名写真家篠山紀信、監修は以前の投稿で紹介した澁澤龍彦となっています。本も大判で本当に豪華な写真集です。基本的にはシモンさんの初期から中期の「球体関節人形」作品が中心に収録されています。初期のシュルレアリスム風の作風がロマンチックな作風に変化していく感じは余分なアイデアがそぎ落とされて作者のイメージがむき出しになっていく感じというか、服を一枚づつ脱いで自然状態になっていく人間というかそんな観想を私に抱かせます。篠山紀信という写真家は実際のモデルを使うときも上手にヌードにもっていったそうなので人形相手にもそのテクニックが活かされたのかと考えます。w この写真集は人形の正面顔のアップが印象的です、そして撮影されたその人形は写真集を見る私を見つめ返してきます。これはシモンさんが人形の目線が合うようにドールアイ(眼のパーツ)を調整していることを表しています。敢えて視線が合わないようにする作家さんもいるのでこれは意図的なのです。そしてその人形と目の合う場所に立った時、写真集ではそのページを見たとき、人形は鏡に映った自分になり人形と私が重なり合ったダブルイメージとなって現れます。また全身が写った中期の人形は片足を一歩前に出しているポーズが特徴的です、これは鏡に映った人形(自分)がそっと動きだすような気配を感じます。写真集は四角に切られたフレームが固定されていますから、鏡に映った自分というシモンさんの人形に対するアイデアが良く理解することができると媒体だと思います。澁澤龍彦の文章やシモンさんとの対談も面白いので人形モノの本棚には是非おいていただきたい写真集になっています。
次はハンスベルメール写真集を紹介します。この写真集はは1934年ベルメールが自身で出版した写真集「人形」に掲載されていた写真をもとに日本の出版社リブロポ-トで出版されたものです。序文は先ほども登場した澁澤龍彦が書いています。内容はハンスベルメールが作った二つの等身大の球体関節人形やオブジェ、恋人の緊縛された姿をベルメール自身が撮影したモノクロの写真で構成されています。ベルメールの写真に一貫して流れているのは撮影対象に対するサディズム(加虐趣味)です。人形は未完成な状態であったり、完成している人形も不完全に接合されていたり、まともにヒトガタとして映っているものはほとんどありません。それらは廃墟のような屋内やさみし気な森の中に置かれ不穏な空気が支配しています。その画面はどこか犯罪現場を彷彿とさせヤバいモノを見てしまった感覚を見ている者に与えます。また恋人を撮った写真にしても細い紐で身体をきりきりと締め上げその肉が切れてしまうのではないかというほど残酷なものです。この恋人の緊縛写真を見るとベルメールはホントに恋人の身体をバラバラにして再接合するかのような妄想に取りつかれていたのではないかと思うほどです。この様にベルメールにとって球体関節人形における関節の接合部の分節線は恋人の緊縛に使った黒い紐と重なるイメージとなって浮かび上がります。ここからベルメールが球体関節人形というモチーフを選んだのは身体の解体と接合という妄想を実現する装置という意味を持っていたことが分かるのです。この写真集を見てもう一つ感じることは撮影対象が撮影者に対して関心を向けていないということです。撮影された人形は見られるために飾られているというより無造作に放置されている様に見えます。何か知らない人の家を覗き込んだような好奇心と空々しさが写真集を支配しているのです。これはあたかも窃視(のぞき)のような感じです。この窃視への願望はこの写真集を支配する」ベルメールのもう一つの願望の表出です。この写真集に写っている人形には覗きからくりが仕込まれており臍の穴から身体を覗くとスライドが見える仕掛けになっていたそうです。スライドは乳首のスイッチで動くようになっていたそうなので覗くという欲望が性的な欲望と結びついていたことは間違いのないことだと思います。ベルメールの持つこの様な欲望は小さな男児が普通に持つ欲望に似ています。つかまえた虫をバラバラにしてみたり、女子の着替えを覗いたり(私にも似たようなことをした経験があります)好奇心と無邪気が残酷さと同居しているのです。しかしこの写真集にはサディズムを感じない玩具の人形を撮った写真も数枚掲載されています不思議とここだけはなにか懐かしい感じがします。これらのイメージはどちらも子供時代というイメージに結び付いていると思います。それも人形だけが遊び相手の孤独な子供時代というイメージです。人形は持ち主の欲望をすべて受け入れ愛玩の果てにが壊されます。そして人形の破壊と共に子供時代が終わります。写真はそんな子供時代を記録する証拠なのです。一人遊びが好きだった私にとってハンスベルメールの写真集はそんなエモい感傷を喚起する写真集なのです。
最後に吉田良一(吉田良)さんの「アナトミックドール」を紹介します。この写真集もハンスベルメールと同じように作者自身が写真を撮影しています。吉田さんは写真の学校に行っていたので人形と写真という組み合わせに一つのアイデアを持っていたと私は思います。それは吉田さんという人形作家の特徴として写真集に表現されていますので内容を説明してみたいと思います。。先ず写真集の内容は吉田さんの人形作品を綺麗に撮ることに徹底しているという印象があります。ここにはベルメールの写真集の持っていたような窃視の欲望は有りません。人形はちゃんとセッティングされて撮影されています。球体関節人形を解体して撮影している写真もありますがサディズムはひかえめでベルメールの写真に対するオマージュともいえるものです。ある意味写真作品としては上品な写真集です。しかしここには四谷シモンさんが人形に対して持っていた考えと違う考えが示されていると思いますので以下考察してみたいと思います。
私が初めて「アナトミックドール」を見たとき感じたのは写っている人形の生々しさでした。明らかにシモンさんの人形より生々しく見えるのです。しかし造形的に生き人形のようなリアルな生々しさがある訳ではなくシモンさんの作品に通ずる類型的な「球体関節人形」の造形スタイルを踏襲しているのです。先述したとおりシモンさんの作品テーマは人形と人間のダブルイメージですから鏡の中に映る人形には人形らしさを強調するように作られています。であれば吉田さんの人形写真の生々しさはシモンさんの人形写真との差異から類推できるという事です、そのようにして写真集を見てみるとシモンさんの写真集にあった人形と目線の合う顔のアップというカットは「アナトミックドール」にはありません。吉田さんの人形は大体において常にどこかを見ているのです。鏡の中の自分を見るには必ず自分に目線を合わす必要がある訳ですから吉田さんの人形作品は鏡に映った自分というテーマに則って作られていないという事を現しています。吉田さんの人形は完全な他者なのです。ですから写真に写っている人形は好きなところを見ています。上を向いたり、こちらを向いたりしています。この人形の持つ自立性が吉田さんの人形の生々しさの正体ではないかと私は考えます。しかし写真集の中の人形の全身が写った写真を見るとあることに気が付きます。吉田さんの人形は足を肩幅に開き平行に配置しています。手は開き痙攣しているようです。どこか麻痺しているように見えるのです。意志を持った人形が動きたくても動けないそしてついには動かぬ物体になる、そんな刹那を写真に写したのが「アナトミックドール」という写真集なのではないかと私は考えています。
以前吉田良さんご本人になぜ人形写真を撮るのか聞いたことがあります。吉田さんの答えは「皆さんの所有欲を満たすため」と言っていました。これはつまり吉田さんにとってカメラとは自動的に人形をミニチュアールにする機械だという事です、そしてそれは複製技術を使って多くの人の所有欲を満たすのです。しかし重要な点はその所有とは作品実体ではなくあくまでも作品イメージであるという事です。こうして創作人形は作品実体の向こう側にイメージとしての人形の世界を作り上げました。「球体関節人形」という言葉がメカニカルな外見の特徴を超えて独特なアイデンティティーを持つのはその様なイメージをも内包した概念だからなのです。このような複製技術時代の創作人形を日本で初めて作ったのは吉田良さんだと私は考えています。そういう意味で「アナトミックドール」は私にとって重要な写真集なのです。
前回の投稿で紹介したベンヤミンは写真について面白いことを言っています。それは写真には人間の無意識が写っているというものです。どういうことかと言いますと写真に写った自分を見てこんな所にシミがあったのかとかこんな姿勢だったのかと感じたことはないでしょうか?これは人間は自分の存在を意識や意志でコントロールできていないという証明なのです。シュルレアリスムは無意識というものを重要視した芸術運動です。彼らが無意識を明らかにする方法として選んだのが「自動化」という方法です。彼らは修行のような方法でそれを成し遂げようとしましたが現代では機械の力を借りれば自動的に人間の無意識を記録できるのです。カメラ然りボイスレコーダー然りSNS然りです。目を凝らせばそこら中に誰かの、又は集団の無意識が存在しているのです。差し詰め現代とはデジタルシュルレアリスムともいえる世の中というわけです。今回紹介した3冊の写真集は作者のその様な無意識が記録されています。写真が持つ不思議な力を理解すれこれからも人形の持つ新しい魅力に出会うことができるのです。今後はデジタル技術を使った新たな人形写真作品も生まれてくることとでしょう、そこにはどの様な無意識が映し出されているか興味が尽きることはないのです。
月光社 つじとしゆき
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