日本の球体関節人形史 概論
今回は日本の創作人形史における球体関節人形の発展と受容について考察します。何となく使っている球体関節人形という言葉がどの様に受容されていったかを考えることは現在の創作人形を考える上で重要な意味があると考え、大まかな歴史の時系列に沿って説明しようと思います。
前史
現在、日本の創作人形における球体関節人形というのは二つの外形的な特徴があります。一つは関節部に球体の関節を持つという事です。しかしそれは必ずしも独立的な球体であるとは限らず身体パーツに埋め込まれた半球体、卵型の物も存在します。二つ目は関節を含むそれらの身体パーツをゴムひもやスプリングでひと繋ぎにしてテンションの力を利用して関節の可動構造を作り上げるという特徴です。その様な外形的な関節形状、可動を支える内部構造を持つものを球体関節人形と呼ぶのが一般的な様式となっています。この様な構造は関節の可動という効果だけでなく人形を持った時に感じる脱力した身体というものを表現するのに向いています。例えるなら赤ん坊や子供を抱いたような感覚です(お姫様抱っこもそうですね)。ポ-ズ人形などポーズをつけるため軸構造を採用している球体関節とはそもそも関節を通じて表現する意図に違いがある訳です。つまりゴムひもやスプリングを利用して生み出される脱力した身体、抑制された身体表現が日本的な球体関節人形の特徴です。
その様な構造を持つ人形を時代を遡って調べてみると日本では自由人形という大正時代の人形に行きつきます。自由人形というのは市松人形の頭を持ち、球体関節を持つことで手足を動かして遊ぶように作られた玩具です。この球体関節人形は西洋の玩具人形(ジュモーなどのビスクドールが有名ですね)の影響を受けてつくられたと言われています。この様に球体関節とは子供の遊びの為の構造として作られたという事が言える訳です。
その様な自由人形を生み出した大正時代の人形界の状況を説明しますと郷土玩具の収集同人や創作人形を作る同人が沢山出来た時代でありました。人形のブームだったのですね。そしてそこに集まった人々の中に郷土玩具の収集の先に新しい人形を見てみたいという欲望が生まれ、伝統人形の考えに縛られずに作られた「創作の人形」が生まれたというのが私の見立てです。そんな創作人形を作った人々が集まった同人は大まかに二つの流れがあったと説明ができます。一つは平田郷陽が所属していた白澤会を始めとした帝国美術院展覧会出品を目指したグループと、そういうことに関心の無かった竹久夢二の所属していたどんたく社などのグループです。どちらのグループも人形の芸術性というものを追求するといった所には共通した理想があり昭和の初期には人形芸術運動という言葉が生まれて創作人形とは人形の持っている芸術性を創造するものという共通認識が人形作家達の間に出来ていった訳です。先に球体関節とは子供の遊びの為の構造と書きましたが、それ故に芸術性を追及する当時の人形作家は球体関節人形の様な人形のスタイルに関心を持たなかったようです。玩具は芸術の扱う領域ではありませんから当然のことですね。ちなみに戦前の1937年の雑誌「みずゑ」にはハンスベルメールの球体関節人形の写真が(私は未見です)紹介されていました。
球体関節人形の誕生
この様に戦前の人形作家が注目しなかった球体関節人形に戦後光を当てたのが四谷シモンさんという人形作家です。彼の自伝「人形作家」によりますと彼は水上雄次や川崎プッペ(この人たちは帝国美術院展覧会を目指さなかったグループのメンバーです)に師事して人形作家を目指していましたが1965年に発行された「新婦人」という雑誌に載っていたハンスベルメールの人形写真を見て衝撃を受け、今までのスタイルを捨てて球体関節人形を作ることにしたと書かれています(ちなみにその人形は本を見てから約半年程で出来上がった計算になります)。しかし1965年当時に作った球体関節人形は彼が自伝でもアンティークビスクドールのボディを参考にしたと書いている通りベルメール風ではなくて西洋アンティークドールのバランスに近いものです。(他の特徴としておへそに赤いビー玉のようなものが埋まっていてベルメール作品のへそに有る覗きレンズを模しているようにも見えます)つまりシモンさんはベルメールの人形が持っているサディズムではなく球体関節という構造そのものに衝撃を受けたのが判るわけです。それから彼は役者をしながら20代を過ごし。作家として本格的にデビューするのは1973年の個展からということになります。つまり1965年の作品は若き日の習作と言えるようなものであったと言えるわけです。本格的な球体関節人形となると1969年に文学者澁澤龍彦の依頼によって土井典さんが作った人形があります。それは簡単に言うとベルメール作品のレプリカです。写真集を見て作ったのでしょうそっくりにできています。この二つの出来事が球体関節人形が日本の創作人形の歴史に現れたトピックと言えます。しかしそれらはどちらも外形的に球体関節人形なだけであって表現というには何か足りない、それは作家のアイデアが外形的なものにとどまっているからです。しかし1973年に四谷シモンさんが初個展をしたときそれは外形的なものにとどまらない新しい人形作品として姿を現したのでした。
1973年青木画廊
私の手元に1973年11月号の「芸術生活」という本があります。人形の特集号で表紙もメインページもシモンさんの人形写真になっています。執筆者も芸術家の池田満寿夫はじめそうそうたる顔ぶれが人形について語っています。面白いのがこの雑誌が四谷シモン初個展に合わせるタイミングで発行されていることです。メディアミックスのようなことしてまで四谷シモンを売り出したい!そんな情熱が伝わってくるとともに役者時代の人脈をフルに使っているという印象も感じる、そんな本になっています。肝心の初個展ですが写真集などの資料を見るといくつかの特徴を発見できます。メイン作品が幾つかの球体関節人形であること。澁澤龍彦が文を寄せたりしてこれは芸術です、シュールレアリスムですと言っている感じ。ピエールモリニエをオマージュした作品。この三つです。ここから類推できるのは一つは創作人形が創造すべき芸術性というテーマがシュールレアリスムという芸術のスタイルに回収されていること。二つ目はピエールモリニエという人物です。このフランス人の男性は女の仮面をかぶりハイヒール、網タイツ姿で自分の女装写真を撮っていた芸術家です。今でいえば森村泰昌さんみたいな人です。女形として役者をしていたシモンさんはシュールレアリスとであったモリニエに女装という接点を見いだして、セルフポ-トレートを撮る彼のアートワークからナルシシズムという彼の人形の理論(過去の投稿を読んでください)を考えたと類推できます。三つめは球体関節というスタイルだと思います。前述したとおり子供の遊びの為の構造という所(アンティークビスクドール)からシモンさんの球体関節人形は端を発しているという事です。つまり今までの創作人形が扱えなかった人形の重要な領域「玩具」という要素に目を付けたのが今までにない新しいところだったのです。この三つの要素は複雑に絡み合い球体関節人形という外形的なものに血肉を与えて新しい表現として姿を現したという事になるわけです。
80年代以後
80年代になると創作人形は活況を呈してきます。四谷シモンさんの影響で創作人形というものに光が当たったのが一つの要因だったと思います。1977年には精神科医の北山修さんが書いた人形評論の「人形遊びー複製人形論序説」が発売されて美学以外の方向から人形をとらえようという動きも出てきました。そのような当時の状況を手元にある美術手帖1981年7月号はよく知らせてくれる資料になっています。表紙の辻村ジュサブローさんから始まって吉田良さん(吉田良一)、天野可淡さん、山本じんさん、中村寝郎さん、片岡昌、土井典さんなど後の「球体関節人形展」に出品したメンバー。珍しいところではせんとくんで有名な薮内佐斗司さん、四谷シモンさんはその中で特別に取り上げられていないあたりに時代の変化を感じます。この時代になると石粉粘土という造形に適した粘土が発売されたことで四谷シモンさんがやっていた伝統的な人形制作方法よりも簡単に造形物が作ることができるようになり、人形という媒体を使って色々なことが表現出来ると気が付いた人が沢山生まれた事で表現は多様になりました。そんな中で吉田良さんら球体関節人形というスタイルに新たな文脈を接続した人たちが現れたことで、創作人形は辻村ジュサブローさんや与勇輝さんらの布人形を作る人たちと球体関節人形を作る人たちという二つに大まかに別れていった。それが80年代だったと思います。(勿論帝国美術院展覧会を目指した人たちの流れに属する人たちも戦後、日展や日本伝統工芸展で工芸的な創作人形を作って行きましたが、そこは専門外なので割愛します)
1991年にリブロポートから発行された吉田良さん、山吉由利子さん、秋山まほこさんらの人形写真集からは球体関節人形に四谷シモンさんの作った様式に新しいアイデアが接続する様子を見ることができます。例えば球体関節に可動をガイドする溝が彫られるようになり、手足の可動範囲が広がりました。そのような可動範囲が可能にする座りポーズはこの頃からの流行です。この溝は可動だけではなく中の空洞構造を見せることにより人形に虚無的な倦怠感を付与しました。後年マリオAさんの写真作品、球体関節の描かれたストッキングなどにもこの溝は描かれています。球体関節人形の脱力した身体が魂を失った空っぽの身体というイメージと結びついたとき球体関節人形は死のイメージと結びついたのでした。
写真集の内容に話を戻しますとデペイズマンを使うなど変わらずにシュールレアリスム的な内容ではありますが、少女イメージを強調しているところにシモンさんとの違いがあると思います。少女イメージというのは日本の少女文学や少女漫画に出てくる、どこにもない西洋的な風景に憧れるありさまや、内省的な少女の心情表現に特徴を持つ日本独自のイメージです。それは古い洋館や西洋アンティーク、リボンやレース、物憂げな表情がビジュアルとしてそれを象徴しています。リブロポートの人形写真集にはこの様なビジュアルイメージが球体関節人形とマッシュアップされて表現されているのです。また、1990年に発行された「夜想 少女」という雑誌では少女の特集にもかかわらずハンスベルメールが取り上げられたり、表紙が球体関節人形の絵であったりして球体関節人形と少女イメージがこの時点で既に結びついていたことを表しているのです。しかしなぜに少女イメージと球体関節人形が結びついたのか?これははっきりとした証拠がないので推論ですが80年代は少女イメージの原点である少女漫画を文学的に読むという傾向があったというのは見逃せないと思います。当時萩尾望都さんや大島弓子さんの漫画を理解できる、語れるというのは文学的な洒落たことだったのです。女子供のものと見られていた人形や少女漫画が社会的な地位を得ていくことに女性人形作家たちがシンパシーを覚えていったとも考えられます。もう一つは少女写真の流行です。先程紹介した雑誌「夜想 少女」はほとんど少女写真の特集なのです。今では考えられないことですが80年代は少女のヌード写真集が沢山売られていた時代でした。シモンさんが初個展で裸体の人形を発表したのは球体関節構造を見せたいという動機と彫刻のような身体表現(と言ってもそれは玩具と人間の合成物ですが)に挑戦したいという意図があったからだと思いますが、そのような人形の裸体と少女の裸体とはとても良く似た退廃的で怪しいエロスという共通点があったのです。今でも手に入る沢渡朔さんの「少女アリス」という写真集は少女の裸体と幻想というテーマにおいてその後の人形写真のお手本のように見えます。
このような経路を経て80年代に球体関節人形は死と少女というイメージと接近しました。(辻村ジュサブローはある公募展の人形の審査に当たった時、これらの特徴を死体性と呼んで批判しました)そしてそれはヨーロッパのアートに繰り返し現れるモチーフでもあります。四谷シモンさんが表現した球体関節人形に接続されたこれらのイメージが80年代の球体関節人形の特徴といえると私は思います。
三輪輝子さんとビスクドール
90年代に入ると石塑粘土が主流であった球体関節人形の世界に磁土を使用した人形、通称ビスクドールが登場します、若月まり子さんが先鞭をつけその後幾人かの作家が球体関節のビスクドールを制作しました。その中にいた三輪輝子さんという人形作家について書きたいと思います。三輪さんは先述したリブロポートの人形作家たちとは同世代でしたが80年代は注目されていない作家でした。それは三輪さんの作品にはシュールレアリスム的な要素がないからです。ハンスベルメールから始まって澁澤龍彦がそのかかわりを説いてから球体関節人形はシュールレアリスムの文脈無しには語りえないものだったと思います。しかし球体関節人形が少女イメージと結びついたことで三輪輝子さんの作品にも陽の目が当たったのです。なぜならば三輪さんは日本人が憧れる架空の西洋、そこのお城に暮らすお姫様というモチーフを得意にしていたからです。しかしそこにあるのは萩尾望都らが書く少女漫画の内省的な世界ではなく、どこまでも可愛いらしく、おおらかなディズニープリンセス的な少女イメージがありました。そしてそれを支持したのが三輪さんと同じ感性を持つ同世代の女性たちだったのです。ある意味それ以前の球体関節人形はシュールレアリスムや澁澤龍彦が言っていることを理解の前提におかなければならないチョット難しいものだったと思います。しかし三輪さんの人形の世界は子供の頃に見た絵本や漫画、児童小説を読んでいれば理解ができるという意味で球体関節人形の持っていたハードルを下げる役割を持っていたと思います。
90年代半ばには恋月姫さんという人形作家がビスクドールを作り始めます。しかし彼女は三輪さんのような明るい世界観ではなくむしろ80年代的な内省的な世界観を好みました。恋月姫さんの代表作である棺の中に眠る少女の作品はまさに80年代のテーマである死と少女そのものだと思います。また彼女は、ハンスベルメールから繋がるシュールレアリスム表現としての人形という歴史をリスペクトしていた作家でもあります。原宿の骨董屋「人形屋佐吉」で展示された彼女の人形は80年代的なシュールな少女イメージのリバイバルそのものでした。そんな彼女の作品を支持したのは当時原宿で流行っていたゴスロリファッションを着た少女たちでした。彼女たちの着ている服はどこにもない架空の西洋に住むお姫様のイメージです、そんな彼女たちが恋月姫さんの作品にシンパシーを感じるのは自然なことでした。そしてその様な服を着た彼女たちは恋月姫さんの人形を通じて80年代的な少女イメージというものを改めて知ったのです。そして彼女たちが作ったムーブメントは雑誌や写真集を通じてあっという間に大きなものになったのです。しかし彼女たちの興味は恋月姫さんの人形そのもの、ハンスベルメールから続く球体関節人形の文脈や創作人形のアイデンティティなんかには興味はありません。そこには三輪さんを支持する人たちとの共通性がありました。これは創作ビスクドールの生み出した一つの特徴だと思います。また付け加えるならば、三輪さんと恋月姫さんにはアンティークビスクドールを愛好しそれを作品にフィードバックするという共通点があります。四谷シモンさんが創作人形の中に玩具の要素を見つけるというアイデアはここにもつながっているという訳です。
この様に90年代になると球体関節人形はビスクドールを通じてハンスベルメール及びシュールレアリスムという繋がりよりアンティークビスクドールのもつ歴史性に接近していくようになりました。アンティークビスクドールは元々洋服を売るためのマネキンとして作られました。そのようなファッションドールと呼ばれた初期のビスクドールはジャポニズムの流行した19世紀のパリで市松人形の影響を受けて私たちの知っているアンティークビスクドール(べべタイプ)になるのです。つまりファッションと玩具というアンティークビスクドールの持つ要素が現代の創作ビスクドールに結びついて新たな文脈が球体関節人形に付与されたのが90年代という時代だったのです。80年代に流行した裸体にビスチェ、着物を羽織らせるなど裸体を強調する表現は見られなくなり、創作人形は着せ替え可能な服を身に着けるようになりました。今ファッションドールと呼ばれる球体関節人形が定着したのはこのころなのです。
球体間接人形展以後
2000年代になると三輪輝子さんと恋月姫さんを中心として創作ビスクドールのブームが起きます。この時点では80年代以前に活躍していた球体間接人形の作家たちと創作ビスクドールの作家たちには見えない溝があったように思います。しかし2004年に開催された「球体間接人形展」においてその両派は一堂に会することとなりました。(球体間接人形展について詳しくは過去の投稿をみてください)この展示はハンスベルメールから繋がる球体関節人形の系譜を辿るように企図された展示でしたから三輪輝子さんには不本意で恋月姫さんには嬉しいものであったと思います。しかし展示の企画意図とは関係なくその後、球体間接人形という言葉は独り歩きしていきました。
当時この展示に出品された自分の人形を作家たちは球体間接人形ではなく創作人形だと思っていました、そう大正時代から続くその系譜です。つまり人形のもつ芸術性の依り代ということですね。しかし会場に訪れた若い観客は展示のタイトルであった「球体関節人形」をそこに見たのです。ではなぜ創作人形ではなくて球体関節人形でなければならなかったかと言うとそこには幾つかの要因があったと思われます。一つはマスプロダクトで作られたスーパードルフィーの様な球体関節人形の存在があります。90年代に発売されたスーパードルフィーは元々自分でパーツを買ってカスタムドールを作るキットでしたから制作する技術が必要とされました。しかしその技術は人形教室で学ぶものでも大学で教わるものでもない模型雑誌などを見て各自身に着けたものです。また、そこで表現されるものも漫画やアニメのキャラクターのオマージュでありどちらも創作人形の文脈に直接接続するものではありません。当時そのスーパードルフィーをバイオリンケースに入れて持ち歩くのがゴスロリ少女やドルフィーファンに流行しました。彼らはそんなスーパードルフィーを創作人形とは思っていなかったのです。二つめは当時日本の球体関節人形がネットを通じて海外の人の目に触れるようになったことがあります。彼らには人形の中に芸術性を見出す創作人形のアイデンティティ、その歴史やそれが生み出した文脈例えば、シュールレアリスム、少女イメージも関係ありません。彼らが求めるのはヴィジュアルのもつ力それだけだからです。つまり球体関節を持っている人形であればそれは創作人形でもスーパードルフィーでも構わなかったわけです。
まとめますと創作人形やスーパードルフィーを含め全ての文脈を横断して共通した球体関節という構造、それを媒介して構成されたあるイメージ、それら全てを統合したものが現在私たちが「球体関節人形」と呼ぶものなのです。これはその言葉を通じて個々の人形の持つ様々なバックグラウンドを破壊してフラットな構造を作り上げました。そして「球体関節人形」が創作人形の文脈から切り離された事で今までに蓄積された様々なヴィジュアルイメージを自由に使う風潮が生まれました。それまで作品の持つヴィジュアルは作者のアイデンティティや記憶、美意識と深く結びつき人形の芸術性の創造という行為に直結していました。しかし「球体関節人形」は必ずしも創作人形である必要はないのでその都度の流行、作家への制作要請、気分によって今までに蓄積された創作人形のヴィジュアルイメージを「球体関節人形」というフォーマットの上にその都度当てはめて作品を作ることができます。つまりそのイメージを作ったのが誰なのか、どういう意図で作られたかを知らなくても作品制作が可能という訳です。イメージはネットにいくらでも溢れているのですから、時にはアンティーク家具の横に作品を置いて山吉由利子さん風にするもよし、教会の祭壇に置いて恋月姫さん風にするもよし、自由に制作できます。そしてその様な構造に対応するかのように球体間接人形展以降、先輩作家達の名前も知らず、制作動機を尋ねると「テーマはありません。カワイイものが作りたかったから」という人形作家が増えていきました、文脈や歴史はもう必要なくなったわけです。今や人形作家というのは創作人形を作る人ではなく「球体関節人形」を作る人に変質したわけです。
この様に現在「球体関節人形」という言葉は創作人形が求めてきた理想の外側に存在する一つの世界となりました。その無国籍、無時間性は人形という実体を離れて、時にはファッションやホラー、漫画などのサブカルチャーと結びつき国境を越えて共通のイメージの世界を構成するに至りました。そしてBoll Jointed doll(BJD)として名を変え世界中にそのイメージを拡散していったのです。これは日本で生まれた球体関節人形というスタイルが国際性を獲得したという意味で画期的なことだったと思います。創作人形という理想の中で追求されたさまざまな技法やスタイル(例えば木目込み人形や布張り人形など)でもなしえなかったことなのですからこの様な現状を誇りに思って良いと私は思っています。
おわりに
この文は若手人形作家の佐藤来夢さんが朝日カルチャーセンターで行った「球体関節人形の世界」という講義を聞いて思いついたものです。私の時代であったら「創作人形の世界」とタイトルをつけたであろう、ではなぜ今は「球体関節人形の世界」なのか?という素朴な疑問が出発点です。ゴスロリファッションを愛好する佐藤来夢さんはどこか90年代の原宿で恋月姫さんを発見した少女たちに重なる人物です、そういうこともこの文の骨子に繋がっています。そして当時原宿にいた彼女たちがその変容に一役買った「球体関節人形」は誰でも創作人形的なイメージを利用して作品が作れる反面、だれが作っても変わらないものになってしまったというのも又事実です。私はその様な現状を嘆かわしく思っている一人です。
漫画やアニメには80年代、既に歴史や文脈を重んじた批評空間が存在し、今では誰でも漫画やアニメに一言を持っています。その様な環境を通過した漫画やアニメは今では海外で戦えるコンテンツになっています。しかし批評空間が存在しない日本の創作人形の世界は創作人形というアイデンティティをあっさりと「球体関節人形」に譲り渡したように見えます。その様な環境で生まれた作品は今後海外の「球体関節人形」作品との競争に勝てなくなるとだろうと私は見ています。既に海外作家の「球体関節人形」は日本の人形コンテストで受賞するほどのクオリティなのですから。
芸術の世界では歴史や文脈というものを重んじます。ヨーロッパに行くとあなたの作品には日本人のアイデンティティがどこに込められているのかなどと聞かれることがよくあります。そういうものを前提に作品を見たり、人間を理解しようとするのがそこでは当たり前だからです。(ジョージルーカス美術館の展示作品に背景を説明する文を掲示しなかった事で批判されたのはそういうことです)しかし日本の創作人形の世界はそういうものをあまり重要に扱ってきませんでした。そういうことが今の現状を生み出した原因だったと思います。しかし人形の歴史や文脈はつまるところ日本の人形文化のことですから創作行為としてはとても武器になります。何故ならそれは他の国の人には簡単に作れないものだからです。この様な無形の資産を無駄にして世界基準の「球体関節人形」に倣っていくことは創作行為の自殺行為のように見えなくもありません。勿論どの様な選択をするのかは現在「球体関節人形」を作っている人形作家の手にゆだねられている訳ではありますが・・・ともあれ未来というものが現時点の向こう側にある事を踏まえれば「球体関節人形」という概念が拡散することはあれど収斂していくことはなさそうです。しかし漫画やアニメが好きなオタクたちや人形になりたいゴスロリ少女、アングラを愛するアーチスト達によってこれからも人々のイメージを刺激する何物かとして「球体関節人形」はこれからも末永く存在し続けるのではないかと私は思っています。
つじとしゆき
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