ハンスベルメールについて考える
今回は本ブログでも度々取り上げたハンスベルメール作品について書いてみたいと思います。ハンスベルメールは文学者の澁澤龍彦が日本に紹介した事で若き日の四谷シモンさんに影響を与え現代に至る日本の「球体関節人形」のルーツになったと言われている作家です。ドローイングなども素晴らしいのですが有名なのは自作の人形を写真に撮影した作品です。その写真については以前の投稿で紹介したので今回は彼の作った人形そのものについて解説と考察をしたいと思っています。美術的な側面からは種村季弘や谷川渥の文などがあるのでそちらを読んでもらうとして本投稿では人形そのものについて書いてみたいと思います。テキストとなるのは彼の写真集の中にある第2の人形と呼ばれるものです。第2の人形とは臍の付いた球体を挟んで二つの下半身が接続された奇妙な人形で作者の人形へのアイデアが良く分かる作品なのでこの作品を手掛かりにハンスベルメールの考えに迫ってみたいと思います。ハンスベルメールは自身の作品について多くを語っており評伝「死、欲望、人形」という本を読むとその考えを大体理解、類推する事ができるので本ブログお馴染みの大胆解説で簡単に説明したいと思います。キーワードは鏡像と転移ですので順を追って説明したいと思います。
一つ目は鏡像です。言葉の通り鏡に映った像という事です。ハンスベルメールはヌード写真の上に縁の無い鏡を置き移動させながら人体がどの様に見えるか観察したそうです、すると人間の人体は相似形のパーツに分節されるされることが分かった訳です、試しに全身が写ったヌード写真の下半身が見えるように臍の部分に鏡を置くとどうでしょう第2の人形のように二つの下半身が接続された像が浮かんでくるはずです、第2の人形奇妙な形はこの様な遊びがもとになって作られたのです。意外と簡単な発想ですね。w。でも造形的にはしっかりとそのアイデアが反映されていて第2の人形の足は鏡に映った側の足と現実の世界の側の足が作り分けられているのです。もう一度鏡の遊びを思い出してほしいのですが鏡に映った下半身は遠くに見えるので見た目少し小さく見えるはずですね。実は第2の人形の足は片方の一そろいの足が少し小さく作られているのです。(以前の投稿で紹介した写真集の75pで確認すればよくわかります)何故ここまで鏡に映った身体というアイデアにこだわったかと言いますとベルメールは身体というものは実際の肉体とイメージの肉体の二つが重なり合っているものと考えていたからなのです。ベルメールの考えたイメージの肉体というのは単に頭の中に漠然とあるものではなく肉体から与えられた痛みなどの刺激が脳の中で何らかの妄想に変換され又肉体の反応としてフィードバックするという一連のシステムのようなものです。第2の人形はその様な現実と仮想の肉体の中で一つの感覚が(ベルメールの場合は痛みと性的な快楽)行ったり来たりする様を表現した人形という事になる訳です。その様な自身の人形についてそれはあたかも回文(左から読んでも右から読んでも同じ音になる文)の様だとベルメールは言っています。この回文という解説をあてはめますともう一つの事が分かります、例えばAKASAKAという言葉で説明すると左辺のAKAを現実の肉体、右辺のAKAを仮想の肉体と想定したとき中心のSは鏡の境界面であり球体関節人形に例えると丁度球体の位置に当たります。これから類推できる事はハンスベルメールにとって球体関節とは人間の関節のメカニカルな置き換えにとどまらず現実の肉体と仮想の肉体を橋渡しするシンボリックなパーツであるという事です。ではこの様なアイデアは何故人形というモチーフで制作されなければならなかったのか引き続き説明します。
先述したようにベルメールは肉体への刺激とそこから発生するイメージの合成物というものが人間の肉体の中に存在するという考えを持っていました。肉体への刺激というのは手だの足だのある局所から発生する訳ですからそこから発生するイメージはある肉体の部分と関係していることになります。球体関節の分節された身体というのはその様な事を表現するメタファー(暗喩)と解釈できるかもしれません。ベルメールはその様な体のパーツと刺激との関係性というアイデアをもう一つ進めてそれらの感覚をコップの水を移し替えるように移動することが可能なのではないかと考え始めますそれを「転移」といいます。ベルメールはその様なアイデアを虫歯の痛みを例えに説明しているのですがそれはこんなものです。「虫歯の痛みが気になったら試しに手をギューと握ってみましょうすると手が痛くなって虫歯の痛みが薄らいだでしょう?これは虫歯の痛みが手に移ったからです。」・・・馬鹿馬鹿しいアイデアですがベルメールはヒステリー症状の患者が手の平で字が読めるようになったという症例を基に真面目にこの考えを推し進め、感覚が転移するなら肉体の外にも感覚は「転移」するはずだと思うようになります、その時肉体の外部にある転移する対象は主観的現実の中にあるモノであるというのがベルメールの結論でした。簡単に言いますと主観的現実の中にあるモノとはつまり人形のことなのです。本ブログを通して読めば人形を主観的現実の中にあるモノと呼んだ意味は何となくご理解頂けると思いますが対照的に椅子や机など思い入れの対象にならないモノを客観的現実の中にあるモノとベルメールは考えていたのです。「人間は自分のイメージを主観的現実の中にあるモノを通して肉体の外側に反映させ客観的現実の中に日々生きている、また客観的現実からの刺激は主観的現実の中にあるモノを通して肉体の中に浸透し肉体の中にイメージを生み出す」この様なモデルがベルメールの思い描く世界と身体の関係性でありました。一見荒唐無稽なアイデアのように見えるベルメールの考えた世界観はただの芸術家の妄想という範疇を超えて実は現代の我々の生活で検証可能な形で現れ始めていますそれをファントムセンスといいます。
ファントムセンスというのはVRゴーグルなどを付けてVR(バーチャルリアリティー)体験をしていると触覚や味覚など感じるはずのない感覚を覚える現象の事です。この様な体験はVR空間にある対象物と親和性を覚えるほどより深くなっていくと言われています。また仮想空間だけでなく机に置かれた両手の片方をゴムの手に置き換え両手を刺激したとき実物の手だけでなくゴムの手にも触られた感覚があるなど(ラバーハンド錯覚といいます)不思議なほどベルメールの世界観を補強しているのです。以前押井守さんのアニメ映画「イノセンス」を紹介しましたが、物語が表現した人間の意識やイメージがモノを通して世界との境界を曖昧にしていく様は未来のものではなく既に現実だという事です。そしてその現実において中心となるのが主観的現実の中にあるモノつまり「人形」という事なのです。まとめますと人間の心を支えている感覚は自分が思い入れのあるモノ(人形)を通じて現実や仮想の世界と接続し様々な刺激を伴って人間の肉体に還流すると人の心の中に新たなイメージを生み出します。そして生み出されたイメージは又、肉体、人形、世界、肉体と繰り返しめぐっていくことになる訳です。この円環するモデルが立体となった時球体という形が自然と浮かび上がりイメージの移動が接続(関節)という暗喩となった時ベルメールの人形は球体関節人形という形になったというわけです。(チョット難しかったかな?)
この様にベルメール作品について考察してみると日本において発達した「球体関節人形」とベルメール作品はあまり関連性を持っていないという事が分かったと思います。日本の「球体関節人形」はベルメールが球体関節に込めた象徴性や暗喩よりもその可動性が持つ機能美やデザイン性が強調されているように思います。海外作家の二重関節や可動フィギュアの関節造形はそれを突き詰めた結果の形でしょう。しかしだからといって日本の「球体関節人形」がベルメール作品の間違った受容の結果だとは私は考えていません。なぜなら19世紀パリで花開いたジャポニズム(日本趣味)は印象派の絵画を生み出し現代絵画への礎となったわけですが日本美術に傾倒していたゴッホやモネに和歌や禅の素養があった訳ではありません。彼らが愛したのはあくまでも浮世絵や陶磁器の外見的な美しさです。同様にジャズやヒップホップを聞くのにアメリカの黒人奴隷の苦難に思いをはせる必要はありません。ある意味文化とは剽窃と誤解が生み出す喜劇のようなものですから別に気にすることはないのです。50年に渡る日本の「球体関節人形」は既に独立した世界があるのですからそれを説明可能なものとして自覚してさえいればそれでよいと私は思います。勿論ベルメール作品の持つエッセンスは日本の「球体関節人形」に殆ど反映されていない訳ですからその様なアイデアを代入した球体関節人形が今後現れてくることもあるのかもしれません。それは日本国内なのか?はたまた海外からなのか?興味の尽きることは有りません。
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