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8月, 2025の投稿を表示しています

TokyoNo1Dol選評l

 2年にわたって行われたTokyoNo1Dollが終了した。東京都内開催の人形個展を審査するというルールで既存の人形公募展では評価されにくい個性や感性を持った作家を見つけ出すというのがこの公募展の趣旨であった。結果において応募者が一人という事になり外見的には失敗の声もいただいたが元来都内で開催される人形個展は年平均10程度、大半はブランディングの済んだベテラン作家なので既存の公募展の様な100人程度の応募は想定していなかった。そういう事であるから応募料をあてにした営利目的は本公募展にはそもそも無く応募者の多少をもってこの公募展の成否は測れないというのが当初よりの方針であった。勿論多くの応募があれば一定の盛り上がりもあったであろうがそれは公募展の持つ競技性という一部分を切り取ればの話であってそれをもって優勝者の価値が担保されないわけでは無い。疑問のある方は応募期間中インスタグラムを通じて多くの立体造形作品を紹介することで現在の人形シーンを俯瞰できるようにはしてきたので優勝した佐藤来夢さんの作品がその中でも充分なクオリティーがあることは確認して頂けると思う。ではそんな佐藤来夢さんの個展を審査員である私自身がどう見たか?以下選評を書きます。 佐藤来夢さんの個展「Still life with innocence」は2025年4/11~4/27までaaploitにて開催された個展です。会場には3体の球体関節人形と幾つかのオブジェが配置されていて装飾などはありません。このことから作者は作品を室内装飾としての人形というよりはアート作品として人形を捉えている事が解ります。公開された個展の動画からも確認できますが作品は全て作者のコンセプトに則って作られており、作品を通して技術、技工を見せる「工芸」や身近なものを使い余暇を利用して生活を彩る作品を作る「手芸」とは違った「アート」として人形を捉える姿勢をはっきり示しています。ですから個展には作者がアート作品としての人形を作ろうとしたとき必然的に現れる、既存の創作人形への批評性が存在します。個々の人形は「球体関節人形」(概念については当ブログ参照)が追求してきた幾つかのテーマである「身体性」「鏡の中の私」「死の表現」に則っており批評性はそれらが内包しているものに自然と向き合う構造の中にあります。個展のメイン作品である「在り処」はそ...

ハンスベルメールについて考える

 今回は本ブログでも度々取り上げたハンスベルメール作品について書いてみたいと思います。ハンスベルメールは文学者の澁澤龍彦が日本に紹介した事で若き日の四谷シモンさんに影響を与え現代に至る日本の「球体関節人形」のルーツになったと言われている作家です。ドローイングなども素晴らしいのですが有名なのは自作の人形を写真に撮影した作品です。その写真については以前の投稿で紹介したので今回は彼の作った人形そのものについて解説と考察をしたいと思っています。美術的な側面からは種村季弘や谷川渥の文などがあるのでそちらを読んでもらうとして本投稿では人形そのものについて書いてみたいと思います。テキストとなるのは彼の写真集の中にある第2の人形と呼ばれるものです。第2の人形とは臍の付いた球体を挟んで二つの下半身が接続された奇妙な人形で作者の人形へのアイデアが良く分かる作品なのでこの作品を手掛かりにハンスベルメールの考えに迫ってみたいと思います。ハンスベルメールは自身の作品について多くを語っており評伝「死、欲望、人形」という本を読むとその考えを大体理解、類推する事ができるので本ブログお馴染みの大胆解説で簡単に説明したいと思います。キーワードは鏡像と転移ですので順を追って説明したいと思います。 一つ目は鏡像です。言葉の通り鏡に映った像という事です。ハンスベルメールはヌード写真の上に縁の無い鏡を置き移動させながら人体がどの様に見えるか観察したそうです、すると人間の人体は相似形のパーツに分節されるされることが分かった訳です、試しに全身が写ったヌード写真の下半身が見えるように臍の部分に鏡を置くとどうでしょう第2の人形のように二つの下半身が接続された像が浮かんでくるはずです、第2の人形奇妙な形はこの様な遊びがもとになって作られたのです。意外と簡単な発想ですね。w。でも造形的にはしっかりとそのアイデアが反映されていて第2の人形の足は鏡に映った側の足と現実の世界の側の足が作り分けられているのです。もう一度鏡の遊びを思い出してほしいのですが鏡に映った下半身は遠くに見えるので見た目少し小さく見えるはずですね。実は第2の人形の足は片方の一そろいの足が少し小さく作られているのです。(以前の投稿で紹介した写真集の75pで確認すればよくわかります)何故ここまで鏡に映った身体というアイデアにこだわったかと言いますとベル...

人形の身体表現

 人形はヒトの形と書くように人間の身体表現を主なものとして発達してきた表現です。そこで今回は人形がどの様な身体表現をしてきたのかを幾つかの本を参考にして考察してみたいと思います。中心となるのは谷川渥著「肉体の迷宮」、岡本真貴子著「裸形と着装の人形史」です。「肉体の迷宮」という本は西洋彫刻と人形を比較することで論旨を立てているの内容なので本題に入る前に先ず西洋彫刻の歴史について簡単に説明したいと思います。 先ず参考にするのはケネスクラーク著「ザ・ヌード」という本です。この本は西洋美術全般において裸体というものがどの様に扱われてきたかについて記した本です。本の冒頭で以前の投稿で紹介した先史時代の小さな人形「古代の女神」から話は始まるのですが西洋彫刻において原点となるのはやはりギリシャ彫刻となります。古代ギリシャにおいて花開いた裸体の表現は元々東方において発展した裸体の表現を下敷きに古代ギリシャ特有の思想と結びついて独自の表現に到達しました。その古代ギリシャの思想というものを簡単に説明しますと世界を作った神様は完璧なのだからこの世界は完璧で整っていることが神様の意思に近づけるという考えです。では完璧で整っているとはどういう事かと言いますと数学的に美しいという事であると彼らは考えました。そこで理想的な人間のバランスとはどういうものか数学的に考え理想的な人体のバランスを考え出したわけです。レオナルドダヴィンチの書いた円の中で手を広げたヴィトリヴィウス的人間という人物像を見たことある方もいると思いますがあれはそういう考えを表しているのです。そんな美しい古代ギリシャ風の彫刻はその後覇権を握った古代ローマにも受け継がれて沢山の古代ギリシャ風の彫刻が作られます、しかし只の物まねにとどまらず顔だけは肖像彫刻というものを作る要求からリアルな人間の表情を作るようになっていきます。時代が下りキリスト教がローマの国教となりますとあんなに流行した彫刻のブームは終了します。なぜかと言いいますとキリスト教は肉体というものを素晴らしい物とは考えない宗教だったからです。そしてローマが滅び中世というキリスト教が政治や社会の規範となる時代となると人体の表現はどんどんアンリアルな表現になっていきました。それから数百年たち古代ローマの栄光がはるか昔になった頃イタリアでは都市開発のブームが起きます、家を建...