人形と擬人化
アニメ映画「トイストーリー」には人形に対する欲望のようなものがダイレクトに表現されています。主人公の人形達は子供部屋の中で部屋にある他の無生物とは違い感情を持ちコミュニティーを築いています。なぜか椅子やベッドは喋らないのですがw飾ってある人形が真夜中に動き出しているかのような妄想は子供のころ誰でも持つ妄想の一つだと思います。勿論これは物語の話ですが人形研究者の菊地浩平さんは客観的にその様な欲望ををマジメに研究している研究者の一人です。具体的には人形参観と称して自分の講義に参加した生徒さん達とその人達が所有する人形に対する気持ちを聞き出したり。人形供養の研究を通じて人形に対する人間の心の問題を取り上げたりしています。それらの研究から分かることは人間は人形に対して人格に近いようなものを認めているという事実だとおもいます。特に菊地さんの本の中で人形とお別れする話の描写にそのような感情を深く感じることができるのです。しかしそのような感情はしょせんモノに対する気持ちに過ぎないわけですからモノの人格を認めるというよりモノを擬人化する心の働きというのが適当な表現だと思います。
「人形は顔が命」というキャッチフレーズは人形メーカー吉徳の往年のコマーシャルのものですが人形における顔の存在は人形が擬人化される時の重要なファクターの一つであることは間違いのないことです。脳科学の研究によりますと人間の脳の中には顔を判断する部位が生来的に存在するそうだす。非常に簡単な顔のモデル、例えば逆三角形の頂点に三個の黒い点を配置した図形でもその部位は反応するそうです。それは「顔パレイドリア」と呼ばれ視覚的な錯覚が生み出す現象、例えば車のフロントグリルが顔に見える現象や心霊写真などもそれが原因だと考えられています。個人的にはサンリオのキャラクターの持つ単純化された顔なども「顔パレイドリア」が生かされているのではないかと思っています。生来的な脳反応に訴えかけているからこそ世界的にみんなに愛されるキャラクターになっているのですね。
顔の対する人間の特殊な感受性は社会的なコミュニティーが高度化されるに従って獲得されていったとことがチンパンジーの研究から明らかにされていますので「人間も顔が命」だったともいえるわけですね。このように人形の顔は人間のコミュニケーションに対する反応を生来的に刺激してのだと考えられます。しかしこれだけでは前回紹介したレコードが人形になるというような現象をうまく説明できません。そこで心理学の立場から玩具と人間の関係を説明したウィニコットの説を紹介したいと思います。
ウィニコットは赤ん坊と母親の関係から何故子供は玩具を欲するのかということを心理学者の視点から考察しました。それがどのようなものか私の解釈を加えて簡単に説明しますとこうなります。試しに赤ちゃんを抱いた母親というモデルを想定してみましょう。第一の段階として生まれてきたばかりの赤ちゃんは感覚的にも未熟ですので母親と自分の身体的な境界が心理的に曖昧な状態に置かれていると考えられます。母親にとって赤ちゃんは他者ですが赤ちゃんにとってはお母さんは拡大された自分みたいな感じになっているわけです。第二に赤ちゃんの感覚の発達に共に乳房などの母親の一部を他者として認識する段階になります。第三の段階になると乳離れの時期になります。。赤ちゃんは失った乳房、また母親と共有していた体の幻想を別の対象(玩具など)に移し替えます。そして精神的な発達と共にそれらが不要になるまで遊びという空間においてそれは子供の精神の支えになります。その移し替えられた物体をウィニコットは「移行対象」と名付けました。なんで玩具と言わなかったといいますと「移行対象」は必ずしも玩具とは限らないからです。よく上記の説明を漫画スヌーピーに出てくるライナスという毛布を片時も離さないキャラクターで説明することがあるのですがライナスにとっての「移行対象」はまさに毛布ということになるわけです。乳離れの時に赤ちゃんが泣き叫ぶように毛布を取り上げられたライナスがパニックに陥る様子が漫画の中では度々出てきます。スヌーピーの中には他にもピアノばっかり弾いてるシュローダー、野球ばっかりやってるペパーミントパティというキャラクターが出てきますがピアノや野球のボールも「移行対象」の一つといえると思います。しかしながら今までの説明は私の解釈も入っているので詳しくはウィニコットの書いた「遊ぶことと現実」をご一読ください。
ウィニコットの説を自分なりに解釈しますと諸元の時点において母親と一体であった赤ん坊は「移行対象」を見つけるまで母親の肉体の部分、例えば母親の乳房と自分の1.5人のような状態に置かれているということです。ウィニコットは「移行対象」を見つけた後成長と共にその0.5の部分は心の中で殺され「移行対象」は客観的な他者、ある物質になるのだと説明しています。しかし前述した菊地浩平さんの本を読む限り人形と人間はあたかも1.5人という関係を存続しながら成長することが可能なのではないかと私は思います。誰でも思い当たる事ですが人形や子供のころ使っていたモノとお別れする時の後悔めいた感情はどこかそれを証明しているのではないかと思います。
まとめますと人形における擬人化とは元々は自分の体の一部また初めて遭遇した他者というアマルガムな幻想存在が移行対象という具体的な物体に乗り移った時に生まれる現象ということがいえると思います。勿論これは人形とこの様な関係を築いた人の心の動きであることは間違いないことです。ある人にとっては特別な人形も他人から見たら汚い人形ということもよくあることですから。
最近はイマジナリーフレンドなどという空想の友人の存在を公言する人がいますがこれも形のない人形のようなものだと思います。人間は一人で生まれる訳ですが前述したように0.5人の友人(移行対象)を伴って成長し他者を求めて社会に入っていくのだと思います。冒頭に紹介した映画の続編「トイストーリー3」において主人公の人形達は持ち主である少年とお別れします。いつかその少年も誰かと子供のころに置いてきた0.5人の友人を持ち寄ってまた新しい誰かに出会うことになるのかもしれません。
かくも人形の擬人化は人形を構成する重要なファクターであり他の造形モノと分別する一つの指標であることをご理解いただけたでしょうか。
月光社 つじとしゆき
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