人形と彫刻

 人形と彫刻

このブログでは人形についてアレコレ考察してみようと思っています。先ずは立体造形表現としての人形と彫刻の特徴を比較することを通じて両者の違いが何なのか探ってみましょう。

ぱっと見、彫刻は大きく人形は小さいというのが印象としてあります。それはたとえば彫刻は駅前や役所などの開けた公共空間、人形はこじんまりとした室内に置かれていることが多いという印象です。そういう観点からそれらの違いを歴史を原点に遡って見ていけば一つの答えに辿り着きそうなので先ず彫刻の歴史についてみていこうと思います。

日本における美術彫刻の歴史は明治以降のことになります、それ以前は像といえば主に仏像でした。文明開化から西洋化への圧力があらゆる分野で起こって美術という概念もその時に西洋から輸入されました。彫刻は絵画と並んで美術の主要表現だったので国を挙げて勉強する必要があったのです。当時はまだ彫刻を教える先生もいなかったので仏像を彫る仏師が先生だったりしました。仏像は信仰物ですので基本お寺の門徒が拝むもので当時一般の人が簡単に見るようなものではありませんでした。なので公共空間に飾られることを目的とした西洋の彫刻を教えるにはには色々と大変だったと思います。

西洋において彫刻が公共空間に置かれた歴史をさかのぼればかなりの歴史が確認できます。近代から遡って説明しますとやはりロダンは欠かせません。ロダンは型を使って作品を作っていたので沢山の作品が美術館、公園、広場などに置かれました。

主に宗教や神話のキャラクターを作ることで成立していたこれまでの西洋彫刻のセオリーに対してありのままの人間像を作ったロダンの作品は宗教や王族という旧来の権威が失われる近代という時代を代表するアイコンになりました。その作品が飾られた公共空間は今でいうメディアとなって新しい人間像を市民に知らしめる装置となっていきました。

日本の戦後開発された町の公共空間ににロダン風の彫刻が多いのは戦後民主的になった日本人に理想化されないありのまま人間像が民主主義の雰囲気にマッチしたからなのかなと個人的には思います。何故なら戦前に作られた現在でも見ることができる有名な彫刻、例えば上野の西郷さんや皇居の楠木正成の像なんかはやはり英雄の像ですし戦前の皇国史観に則った勇ましい像なわけですから。

西洋においてもロダン以前には彫刻はキリスト教の聖人であったり、ギリシャ神話のキャラクターだったり、王様だったり立派な人が主なモチーフで、作られた像は教会や王宮などに飾られ権力者の権威の象徴として存在していたのです。キリスト教以前にさかのぼればローマの皇帝やギリシャの神官、エジプトのファラオに至るまで巨大な彫刻は支配の装置として又は民族や宗教の統合のアイコンとして作り続けられてきた訳です。

翻って人形に目を向けますと有名なものに古代のビーナスという有名な像があります。さかのぼること今から2万年近く前に作られたおしりと胸の大きな10cm程のサイズの女性像です。主な素材は石やマンモスの牙などですが多分木や土でも作られたでしょう、さすがに残ってはいませんが・・・。主に高緯度のユーラシア大陸で発掘されることが多く狩猟採集の時代から農耕牧畜の時代に移行するにつけ作られなくなっていきます。

これ等の像は現在の我々から見れば人形としか見えないものですが考古学的には良く分からないものとしか言えないものです。もしかしたら神像かもしれませんし具体的な誰か、例えばご先祖様とかスマホの待ち受け画像みたいに奥さんとか推しキャラなのかもしれません。

しかし判らないとはいえ一つわかることはやはり大きさということだと思います。エジプトの巨大な像は10m近く、古代の女神は10cm前後ですからその差は膨大です。その差はそれを見る人間の心に何らの効果をもたらしているはずです。人形においての小さいということは持ち歩けるということから得られる効果ですし、先述した古代彫刻の大きさは皆でそれを見るのに適しているということから得られる効果です。例えてみればそれは持ち歩けるスマホのスクリーンと映画のスクリーンの対比とよく似ています。アニメを見るにしてもスマホであれば一人のタイミングで人目を気にせず見れますしマニアックなものでも心置きなく見れます。同じアニメでも大スクリーンで沢山の人と作品を見る時は自分タイミングでは見られないにしても作品の感動をみんなで分かち合えるグルーブ感があると思います。見るという行為は同じでもシチュエーションが変わればその作品の印象が変わるのは経験的に理解できることです。

まとめるとすれば彫刻の持っているグルーブ感は沢山の人の心を一つにまとめたり、熱狂させたりするのに向いています。時代の変遷につれ彫刻の表現は多様化しましたが彫刻の目指すところはその大きさにかかわらず現代でもそのようなものだと思います。翻って人形は個人的な、又せいぜい顔見知り程度の人口規模の人々の気持や信仰の拠り所として日常生活に溶け込むのに向いていると思います。

彫刻は発生より権威と歩みを共にしてきたので、ある意味立派なものとして見なされ人形はプライベート空間の表現であるがゆえに造形美術の傍流に置かれたわけですが、現代においては映画館で見る映画がスマホで見る映画より立派というわけではありません。むしろテクノロジーの発展はスマホ的なものがつなげる顔見知りコミュニティーによる人形的アイコンに親和性を見出しているとさえ言えます。それは人形の持つ現代性ということも言えるわけです。

昔の人は知らず知らずのうちに像の持つ大きさと人間の心理的な効果について経験的に学び彫刻的な像、人形的な像と使い分けをしていたのではないかというのが今回の結論です。造形物としては外形的に同じようでもその発生に目を向けるといろいろな違いがあることが分かって頂けたのではないでしょうか。


                             月光社 つじとしゆき




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